『晩春』['49]
『浮草』['59]
監督 小津安二郎

 今回の課題作は、小津安二郎の二作品だった。先に観た『晩春』は今回が初見で、これが小津の『晩春』かとの思いとともに観た。タイトル画面に昭和二十四年完成とあったから、今から七十四年も前になる戦後四年の作品かと思いながら観ていたら、オープニングの茶会のみならず、曾宮(笠智衆)と小野寺(三島雅夫)の遣り取りにしても、サイクリングに出た紀子(原節子)と服部(宇佐美淳)の交わしていた焼きもち談義にしても、とても戦後四年とは思えない長閑さと悠長さに唖然とした。原作とクレジットされていた廣津和郎の小説は、いつの時代のものなのだろう。映画では、道路標識の形状をした広告看板に「Coca-Cola」とあったから、戦後の話に間違いないのだが、いくら大学教授の家にしても、戦争の影が露ともなくて驚いた。

 それにしても、二十七歳にもなって、父親の友人の再婚話に不潔だの汚らしいなどと言う紀子の感覚やら、目に余るファザコンぶりに苛立って、いささか遣り切れなかった。だが、よくよく考えてみれば、僕が幼少の時分にもまだ、子供が小さければいざ知らず、成人もしている歳になっての再婚は、色眼鏡で見られる空気があったことを思い出した。奇しくも昼間に観た、正調松竹映画を継承しているように思えたこんにちは、母さんが、大学生の孫娘のいる福江(吉永小百合)が老いらくの恋に身を焦がす姿を描いていたこととの隔世の感を強く覚えた。

 そういう意味では、とてつもなく古めかしい作品なのだが、京都に旅行した夜に曾宮が娘に言って聞かせる結婚することが幸せなんじゃない。新しい夫婦が新しい一つの人生を創り上げてゆくことに幸せがあるには、普遍性があるように思った。僕の場合は、娘を送り出すことに何の難儀もなく、娘が紀子の歳にはもう孫も産んでくれていたから、曾宮の苦労は想像の埒外だが、父子家庭を長らく続けていると、そういうこともあるのかもしれない。厄介なことだ。

 オープニングクレジットに「戀之舞」と観世流の能の舞が記されていたが、画像として唯一見覚えのあった曾宮父娘が並んで能見物をしている幸福そうな図に続いて、父の再婚予定相手と思しき三輪秋子(三宅邦子)の姿を見留て会釈をした後、紀子が悲嘆しつつ見せた般若顔には、大いに感心した。そのための能だったのかと得心した。父に再婚計画があるらしいと知ったときの冷たい表情以上に印象深かったように思う。そこに観応えがあったとはいえ、何ともめんどくさく長閑な話だった気がしてならない。それはともかく、原作の『父と娘』を『晩春』と改題した意図は何だったのだろう。また、原作の娘の名も紀子だったのだろうかと、ふと気になった。

 すると、本作を課題作に選定した映友がタイトルの謎よね。リメイク作は『娘の結婚』やったきね。と寄せてくれた。これについては、何の史料的根拠もないけれども、思春期の十代に対する紀子の年齢を示しているのではないかと僕は解したのだった。紀子にとって、遅ればせに訪れた思春期のようにも映る作品だったからだ。しかし、この歳になってしっくりと小津映画の良さが身に沁みましたという映友女性からは当時じゃ遅い結婚だったのでは? だから、遅い春で晩春のタイトルはすんなりと納得とも言われ、確かに当時的には、結婚=春としての晩春というタイトルだったと受け取るほうが自然かもしれないと思った。そして、考えてみれば、晩春というのは春の終盤という意味であって、春が思春期であれ婚期であれ、遅い春という意味ではないと思い当たり、花たる娘と過ごせる春の終わりという意味での晩春だったのかもしれないと思い直した。それと併せて、紀子の場合「遅ればせに訪れた思春期」ではなく、十代時分から続く長い思春期をようやく終えることを以ての晩春とも言えそうな気がしてほくそ笑んだ。そういう意味で、父と娘、双方における晩春を描いていたというわけだ。なかなかの改題ではないかと感心した。


 翌日に観た十年後の大映作品『浮草』は、三十二年前の三十代の時分に自分たちで上映した後、五年前に大映創立75年企画“大映女優祭”で再見して以来の三度目の観賞となる。

 僕自身は、浮草稼業の旅芸人とは真逆とも言えるような職業を四十余年続けて、先ごろ年金生活者になったばかりのところだから、十二年前にお芳(杉村春子)の元に訪れた際に五十肩だったらしい嵐駒十郎とちょうど同じくらいの年頃になっていることもあって、彼を演じている中村鴈治郎が何とも沁みてきた。辿ってきた道は駒十郎とまるで違い、まるで違う境遇ではあるけれども、思いのほか響いてくるものがあって、わずか五年前との感覚の違いに驚いた。キーワードは、リタイアなのだろう。


 合評会では、代表作に挙げられることの多い『晩春』のほうに与した者が一名で、残り三名は『浮草』のほうを支持したことが興味深かった。支持理由はドラマ性であったり、『晩春』への反発だったり、さまざまだったが、男女関係であれ結婚観であれ、現代からすると余りにも古臭く、因習とも思える価値観に縛られている人の姿がどう映ってくるかが、鍵になっていたように思う。時代劇として割り切れないところが味噌だと思うが、そこには、作り手側が昔の話として撮っている時代劇と作り手側が現代劇として撮っているのに時代的ずれが大きくなって時代劇化しているものという大きな違いがあるような気がした。

 そのようななか中村鴈治郎が女を叩くのはヤだ。アホとか言って何度も罵るのもいただけない。杉村春子が酒をつけたりと、やたら世話を焼く姿もいただけない。昔のダンナ然としたオッサンだなぁ、と不愉快。ということで『浮草』を断罪した女性メンバーが、結婚への女性の縛り付けを背景にしている『晩春』については厳しい掟のような結婚制度に対して、庶民生活の抗えないいじらしさが滲む作品として支持するばかりか、泣けるようないい話だとまでコミットしていたことに吃驚した。女に手の速い駒十郎と、スケベ心を表に出さない曾宮との差なのかもしれないと思ったら、『晩春』には隠された性的ニュアンスが濃厚だったとも言うので、ますます彼女が気に入った理由に得心できず、混乱した。

 主宰する映友が言った今回のカップリングテーマは“小津安二郎の世界ー静と動ー”でどうかには大いに納得。画面、物語の進行、音楽、役者の演技、いずれをとっても実に、静と動が対照的な『晩春』と『浮草』だったように思う。




*『浮草』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/6037425479690318/
*『晩春』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/6020095968089936/
by ヤマ

'23. 9.10,11. DVD観賞



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