『鬼畜』['78]
『わるいやつら』['80]
『疑惑』['82]
監督 野村芳太郎

 スカパー衛星劇場が没後30年松本清張特集ということで、松竹映画18作品を放映したなかから、未見の3作品を続けて観た。

 最初に観た『鬼畜』には、僕も学生時分に何度も行ったことのある風情の新宿 MY CITY が映し出され、『コンボイ』['78]のポスターが映り、墓地の新しげな墓標に昭和五十三年の文字があったから、時代設定は同時代だったのだろうが、僕の記憶イメージよりも、かなり昔っぽく映ってきたのは、竹下印刷の佇まいや事件そのものの漂わせていた時代感覚からなのだろうかと、少々気になって確かめてみたら、松本清張の原作小説は、映画化作品よりも二十年前だった。朝ドラ『らんまん』で槙野万太郎が印刷所の石板磨きをしていたのは明治時代で、竹下宗吉(緒形拳)が過去の腕自慢をし、事件捜査の鍵となっていた石板印刷の件についても時代設定的に違和感を覚えたのだったが、それで氷解した。高度成長期以前なら、わからぬでもない。

 それはともかく、序盤にしか登場しない菊代【宗吉の妾】を演じた小川真由美と、菊代の長男利一(岩瀬浩規)が「おにばばぁ」と絵に描いていた、お梅【宗吉の妻】を演じていた岩下志麻の圧巻の迫力の前に、唯々だらしなさが目立っていた宗吉が、三歳の良子(吉沢美幸)と違って事情を知られ過ぎていると殺める覚悟をしながらも、なかなか決行しきれなくて連れ回していた六歳の利一に、己が生い立ちを独り言ちる場面が実に利いていて感心した。何を取ってみてもケジメのつけられない宗吉のだらしなさを責めるのは簡単だが、彼にもその生を咎めるには酷な知られざる過去があったというわけだ。

 六歳という年齢は侮れないもので、おにばばぁ憎しはあっても、慕う気持ちと失望がないまぜになる宗吉に関して、警察の尋問に利一がシラを切り通して庇ったのは、旅館での宗吉の独白に籠っていた心情を利一が完璧に理解していたということなのだろう。宗吉が利一に詫びる姿が遅ればせに過ぎるにしても感慨深かった。子供はやはり凄いと改めて思う。

 すると、映友女性から、何十年も前にテレビで観た切りで、記憶は曖昧だけれどもとのことながら、利一の「知らないおじちゃん」は、父親を庇ったのではないと思った覚えがあるとのコメントを寄せてもらった。お梅の虐待からも庇ってくれず、子供心に父親から殺されかけたのも解っていたと思うので、あれは利一からの父親への三下り半だったのだと感じたとのこと。六歳にして、父親を自分の人生から切り離したい意思を見せた場面だったように記憶しているそうだ。

 確かに、そういう観方もあるのだろう。しかし、それは利一が竹下の家を見限って独りで男衾まで家出した時の心境だと僕は思っていて、そのまま最後までそう続けるのであれば、かの砂の器ではないが、二人の旅路をあれほど延々と詳述することはなかったような気がするし、宗吉が独り言ちる場面をあのような形で際立たせなかったように感じる。ドラマ的に言っても、あれだけの連れ回しを描いて、それ以前と以後で変化がないのでは劇的には面白くない気がする。

 もっとも、家出以後は首尾一貫して利一の見限りに変化はなく、ただ前回は父親の名と住所を言って連れ戻されたことを学習していて、連れ戻されたくない一心でシラを切ったというのも、受け止め方の一つだろうとは思う。だが、あの描き方だと僕はむしろ、独力で遠く離れた男衾駅まで行き遂せる利発な利一が宗吉の呟きの意味の全ては理解できずとも、心情は完璧に理解したと解するほうが好みだ。

 すると、今度は映友男性があの緒形拳の長い独白は原作にはないです。脚本の井出雅人自身の体験なんだそうです。ちなみに脚本では、利一少年の拒絶の叫びと、竹下の「勘弁してくれ!」でエンドマークになってました。と教えてくれた。

 映画では、涙ぐみながら鼻を啜って父ちゃんじゃないよと否定していたのだが、脚本段階では、拒絶の叫びになっていて、また映画では、利一の弁を聴いて宗吉が泣きながら繰り返す勘弁してくれの後も、利一の養護施設送致のために児童相談所の車が迎えに来て、それに乗って車中で静かにしゃくりあげている利一の姿を捉えてエンディングとする改変を脚本に加えていたことになる。その意図を察すると、どうやら僕が受け留めたものは作り手の思いに沿っていそうだと思った。


 続いてみた『わるいやつら』は、先に観た『鬼畜』から二年、原作・脚本・監督・撮影・美術・音楽とも同じスタッフによる作品で、打って変わって綺麗どころの居並ぶ艶やかなオープニングに瞠目したが、さらに驚いたのは、お気に入り作道頓堀川を二年後に控えた松坂慶子の一きわ目を惹く美しさだった。

 お話のほうは、女誑しの過ぎる二代目病院長の戸谷医師(片岡孝夫)の余りの浅はかさが、ボンボン育ちだけでは済まない御粗末さで、いささか興が削がれたように思う。確かにタイトルどおり登場人物の皆人がピカレスクといえばピカレスクなのだが、そこに浪漫がまるで感じられず、なんだか貧相で卑しいだけに思われて残念だった。とりわけ戸谷の人物像が悪漢というより脇の甘い愚か者にしか思えないところがツラい。

 それにしても、亡き病院長から親子二代に渡る愛人看護婦長の寺島トヨ(宮下順子)という趣向は、原作からもそうだったのだろうか。川端康成原作の千羽鶴['69]を想起させ、呆気にとられた。

 京都と赤坂に高級料亭を構える女将の藤島チセ(梶芽衣子)はまだしも、大店の材木問屋の後妻と思しき何とも重たそうな横武たつ子(藤真利子)の何がよくて、戸谷は手出しをしていたのだろう。金目当てでもなさそうで、妙に釈然としなかった。槇村隆子(松坂慶子)に魅せられ、無理をして一億円を見せ金として捻り出すこと以上に、不可解な横武夫妻殺人事件だったように思う。

 役者ではやはり『鬼畜』にも出演していた緒形拳が鮮やかだった。彼の演じた井上警部とのくだりがなければ、本作は、実に凡庸極まりない作品になったような気がする。眞樹邑ブランドとして森英恵とのコラボ企画を実施するまでになる“わるいやつ”としての槇村隆子のほうを主軸にした物語にしていれば、もっとよかったのではないかと思った。


 最後に観た『疑惑』は、『鬼畜』の岩下志麻と小川真由美も凄かったが、本作の岩下志麻と桃井かおりは、それをも上回る火花の散りようどころか、果てにはワインをボトルから浴びせたり、顔に刎ね掛けたりしていて、まったく恐れ入った。

 桃井かおりは、本作がベストアクトではなかろうか。余人を以て替え難い鬼塚球磨子を体現していたように思う。国選弁護人佐原律子を演じた岩下志麻の貫録も見事で、律子の名に相応しいクールな律し方に見惚れてしまった。しかし、さぞかしストレスが溜まっているんじゃないかという気がして、球磨子の言うあんたのような女にだけはなりたくないわがよく分かる気がする。律子自身がそれを痛感している節を窺わせる辺り、やはり岩下志麻は凄い。

 この二人に対する福太郎(仲谷昇)にしても、片岡哲郎(伊藤孝雄)にしても、とうてい太刀打ちできるようなものではない。やはり死ぬか別れるしかないのだろうと思わずにいられない凄みがあったような気がする。二人ともそこらの凡人と懸け離れていた。

 二人の飛び抜けたキャラクターと対照させるように、職業人律子に対する凡庸職業人としての新聞記者秋谷(柄本明)と凡庸女性片岡咲江(真野響子)の言い分を最後に配していたことに感心した。実に理不尽な言い分ながら“凡庸な人間らしさ”の有体を表していたように思う。おそらく律子が意志的に自身から排除してきたもので、一女をもうけた夫哲郎が律子から咲江のほうに心を移していった一番の理由だったような気がする。

 主要な製作スタッフを前作『わるいやつら』と同じ布陣で臨んでいるなか、脚本だけが井手雅人から原作者自身に替わっていたように思う。手元にある公開時のチラシによれば、脚本担当者の記載がなく、原作・脚色の松本清張と撮影台本の古田求と野村芳太郎になっていて、井手雅人の名がなくなっている。清張が前作に不満を抱いていたのではないかという気がした。自ら乗り出した本作は、脚本を書いても、さすがは清張だという出来栄えだったように思う。

 それにしても、前二作の竹下宗吉、戸谷信一以上に、情けなくだらしのない白河福太郎(仲谷昇)だったような気がする。ふてぶてしい妻に下僕のように従うオープニングの姿がよく似合う仲谷昇だと思った。

 古くからの映友男性が、公開時に観客が大笑いしていた映画だと教えてくれた。とりわけ桃井かおりが鹿賀丈史のことを懲役太郎と呼ぶシーンはバカ受けだったそうだが、球磨子の昔馴染みの豊崎を演じた鹿賀丈史のチンピラ感もなかなか好かった。取り澄ました白河家の人々を筆頭に並み居る“装い人”たちのなかで、球磨子と豊崎の二人だけが、体面や職業意識などとは無縁の“素で生きている人間”だったような気がする。チャパキディック事件の名も知らぬまま、非常に重要な証言をする大事な役回りだった。そして、彼の証言に喜んだ球磨子の反応の仕方に感じた桃井かおりらしさが可笑しかった。

 また岩下志麻かっこよかったですね~! 裁判の場面もクールでかっこよかったけど、こどもとの別れの場面では、言葉も涙も表情さえ抑制して子どもの将来を思って気持ちを押し殺したことが伝わってくる。死んだ父親の残した言葉を息子に証言させるに至る人間性の源にそんな母性を感じました。岩下志麻の魅力と律子という役の魅力が混然一体となっているこのひとをいつまでも見ていたいと思いました。と寄せてくれた映友女性もいた。彼女が言及している「こどもとの別れの場面」については、どうすることが子供にとって一番いいのかは、一概に言えないことで、もしそれが明らかになっていれば、極めてロジカルで冷静な律子が、ただ咲江の要望に応じるということはないはずなのだが、実母と継母がどういう立ち位置で関わることがあの微妙な年頃の女の子にとって一番いいのかを予め見極めることなどできないときちんと弁えていたに違いない。さればこそ、律子の判断基準は、己が想いよりも、娘と最も関わる時間が濃密で長い咲江の覚悟の程のほうだったのだろう。自分の子はもうけない、あの子を自分の子として育てるためにという咲江の覚悟に、であれば、自分も相応の覚悟を以て応える必要があると判断したという気がする。良くも悪くも見事に「律子」だ。




*『鬼畜』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
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*『疑惑』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
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by ヤマ

'23. 7.17. スカパー衛星劇場録画



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