『花芯の刺青 熟れた壷』['76]
『生贄夫人』['74]
『団鬼六 縄と肌』['79]
監督 小沼勝
監督 小沼勝
監督 西村昭五郎

 思い掛けなくも谷ナオミの日活ロマンポルノ作品を三作続けて観ることが出来た。

 最初に観た『花芯の刺青 熟れた壷』は、二十三年ぶりの再見となる。当時の日誌肥満の一歩手前で美しさを保つ豊満な肢体の持つあやうさと柔らかさ、それは、あらゆるものを呑み込み受け入れられそうな底なしの掴み処のなさとそれを支える強靭さを同時に感じさせるのだが、その肢体を存分に使って、性行為の快感やら彫り師(蟹江敬三)の施す針の痛みやらに鋭敏に反応する女体の美を余さず表現していた。豊かな尻肉をピクッと締めたり、柔らかな腹部を妖しく波打たせたり、その微妙な動きの醸し出す情感には見事なものがあり、単に動きを真似ただけでは得られない彼女の肢体ならではのものを感じさせる。加えていささかのっぺりした彼女の面立ちが、いかにも魔性の性を押し殺し、内に隠した風情を湛えていて、結果的にコントラストの鮮やかさをもたらし、余計に鮮烈な印象を与える効果を果たす。熟した女の色香が匂い立つ爛熟した性の禁断の魅惑という点では、数多くのポルノ女優のなかでも随一の女性だと改めて思った。と綴った部分への想いは変わりなかった。大した女優だ。当時、三十路にも至っていないとはとても思えない貫録だった。

 その一方で娘道成寺の化身である大蛇の首を豊かな乳房の膨らみに彫り込んで、頂きにある乳首に舌を伸ばし、蛇身が女体に絡む図柄の彫り物が、左の乳房であるはずなのに、右の乳房になったりしているカットがあったのは御愛敬と記してある部分は、自分を女にした尾形菊三郎(花柳幻舟)の遺児ヒデオ(中丸信)から父の遺品だと教えられた鏡に、大蛇の刺青を映して見せていたなかでのヒデオとの絡みだったから左右反対になっているのだった。菊三郎に見せつける意を込めた視線を鏡に向けてくれていれば、当時も鏡に映したものだとすぐに気づいたのだろうが、そのような演出はされていなかったので、見落としたようだ。

 結婚生活わずか半年で、師匠でもあったはずの紙人形師たる夫と死に別れて十年、孤閨を護って来たと思しき吉野みち代(谷ナオミ)が不本意な形ながら取引先の社長(長弘)に身体を開かれて火が点いてしまったところに、旧知のスナックのママ冬子(花柳幻舟)が寝ても覚めても菊三郎、菊三郎と言っていたと揶揄していた歌舞伎役者菊三郎の長じた遺児と出会って、菊三郎の娘道成寺を呼び起こされ、清姫の如き熱情に駆られるようになるとの筋立てが、ラストで舞い落ちる桜花の如き紙吹雪に相応しい、芝居掛かった興趣を醸し出していたように思う。

 今回、改めて目を惹いたのは、作り手が谷ナオミの身体の細部に丹念な眼差しを向けてフェティッシュに捉えていることだった。彫り師が紙人形師みち代の肌を見初める項やら濡れた足袋を脱いだ足のカット、長い黒髪を梳き束ねるカットや、菊三郎の名を呼びながら交わったヒデオがそのまま義娘たか子(北川たか子)と交わる姿を覗き見つつみち代が涙を零す眼と視線を捉えたカットなどに感心した。だが、やはり本作のハイライトは、彫り物の場面に他ならない。眼と言えば、その彫師の鋭い眼光、魅入られた眼、呆けたような眼差しなど、ニュアンス豊かな目つきを見せていた蟹江敬三が見事だった。タイトルとなっている“花芯の刺青”場面の凄みは、両優畢生の名演だと恐れ入った。


 続いて観た二年先立つ『生贄夫人』は、十七年ぶりの再見だった。当時の日誌団鬼六の『美少年』に収録されている『妖花 あるポルノ女優伝』には昭和四十年ごろに十八歳の谷ナオミと出会ったとの記述があり、それなら、この当時はまだ三十歳前ということになるのだけれども、この爛熟ぶりはとても二十歳代とは思えないと感じつつも、肌の張りには生気が漲っていて実に瑞々しい。と記してある部分については、どうやら谷ナオミの生年は1948年らしいから、三十歳前どころか二十代半ばということになるわけで、まったく凄いものだ。エンドロール後の「終」カットの身の捩りに射すくめられる気がした。

 7分近くも短縮されたR-15版ではあったが、スクリーン観賞した時点からカットされている部分がどこなのか、見当がつかなかった。スカトロ場面かなと思ったが、心中未遂から蘇生した薫(東てる美)への浣腸責めは、華道師匠の池永秋子(谷ナオミ)がポリ袋で受け留める場面まで漏れなくあったし、出奔していた夫の国貞(坂本長利)に捕えられ監禁された秋子が受けていたものも、大小便の排泄羞恥責めから、開脚屈伸縛りでの局部への蠟涙責めも、帰宅して持ち帰ってきた花嫁衣裳の白無垢姿で吊りに掛けて施していた剃毛にしても、半裸で岩場に緊縛された野外での笞打ちにしても、漏れなくあった。剃毛シークエンスはもう少し長かったような気がしなくもないが、大筋においては欠落している場面がなさそうに感じた。そして、東てる美の顔つきがほとんど十代のようだったことに驚いて確かめてみると、1956年生まれとのことだったから十八歳かと、恐れ入った。


 最後に観た『団鬼六 縄と肌』は初見の作品で、谷ナオミの日活ロマンポルノ最後の映画のようだ。期するところがあったのだろう、手本引札師としての引退披露の花会での緋桜のお駒(谷ナオミ)に、敢えて本名を小谷ナオミと名乗らせての引退口上を序章として始まっていた。ロマンポルノだから裸の場面はふんだんに出てくるけれども、官能色はほぼ皆無で、むしろドスを握って襲い掛かって来るやくざ者との立ち回りをお駒が繰り広げる場面が序盤と終盤の見せ場になっているというアクション映画だった。

 鬼六的な下郎世界の阿漕さはよく描かれていて、女郎稼業のだるま屋を差配する結城組親分を演じていた高木均が十八番の役どころだったが、鬼六的な無間地獄も官能羞恥も描かれず、最後には高木均お得意の台詞ま、ま、待ってくれ…が登場する任侠映画の設えになっていたように思う。恩ある佐倉の親分(小山源喜)の娘お雪(山科ゆり)を救うべく囚われの身となったお駒が花電車修行を強いられる場面でも、鬼六作品では官能の極致に導いて気をやらせることで鍛えるお道具修行が常道なのに、敢えてそこを外してきて只管、苦行を強いられることへの我慢に我慢を重ねて最後に爆発させる立ち回りに繋げる形にしていたのは、それ故なのだろう。それにしても、谷ナオミの立ち回りは、なかなか達者で感心させられる。
by ヤマ

'23. 3.20. GYAO!配信動画



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