『餓鬼草紙』
『花芯の刺青 熟れた壷』
監督 高林陽一
監督 小沼  勝


 今や随分御無沙汰している気がするが、八十年代に『ザ・ウーマン』(80年)『雪華葬刺し』(82年)を観た時には、高林陽一というと噂に聞くほどの監督でもなく、シャープで鮮やかな映像感覚を持ちながら、その映像にドラマや情感を語らせる力を与えられないでいる印象があったのだが、73年マンハイム映画祭グランプリ受賞の第一回長編劇映画だという『餓鬼草紙』を観て、いろんな意味での彼の原形を感じた。

 まずは、いささか闇の側面を窺わせる伝統的文化に寄せる強い関心であり、次に音楽や台詞を全く使用しないスタイルに窺える映像至上主義である。しかしながら、三十年近くの時を経てなお斬新さを保っている作品ではなかった。

 僧侶と女犯煩悩あるいは聖職者を惑わす女の魔性なんて題材は、東西に古典的なもので陳腐ですらある。思わず失笑してしまった、ジュークボックスから聞こえた山本リンダの“狂わせたいの”(確かに僧は狂わされたのだが)とか、煩悶する僧の自慰に果てた精液が仏像の頭に降りかかり流れ伝うショットとか、煩悩を克服できない自身に科した断食の行の果てに絶命した僧の死顔に蛆虫が湧いていたショットとか、受けを狙ったのかもしれないが、少々安っぽく悪趣味だ。


 小夏の映画会の上映会で、やれやれという感想を持つ作品に出会うのは珍しいのだが、これなら氏から預かっていたビデオで、たまたま同じ日に観た『花芯の刺青 熟れた壷』(76年)のほうが、同じ七十年代の作品でも今観てなお、ある種の感銘を与えてくれたように思う。

 この映画も歌舞伎や刺青、紙人形といった伝統文化に潜む情念や魔性を題材にしていたので思わず並べてしまったのだが、何よりもこの二年後に引退した谷ナオミの存在感と艶技が圧巻だった。肥満の一歩手前で美しさを保つ豊満な肢体の持つあやうさと柔らかさ、それは、あらゆるものを呑み込み受け入れられそうな底なしの掴み処のなさとそれを支える強靭さを同時に感じさせるのだが、その肢体を存分に使って、性行為の快感やら彫り師(蟹江敬三)の施す針の痛みやらに鋭敏に反応する女体の美を余さず表現していた。豊かな尻肉をピクッと締めたり、柔らかな腹部を妖しく波打たせたり、その微妙な動きの醸し出す情感には見事なものがあり、単に動きを真似ただけでは得られない彼女の肢体ならではのものを感じさせる。加えていささかのっぺりした彼女の面立ちが、いかにも魔性の性を押し殺し、内に隠した風情を湛えていて、結果的にコントラストの鮮やかさをもたらし、余計に鮮烈な印象を与える効果を果たす。熟した女の色香が匂い立つ爛熟した性の禁断の魅惑という点では、数多くのポルノ女優のなかでも随一の女性だと改めて思った。

 娘道成寺の化身である大蛇の首を豊かな乳房の膨らみに彫り込んで、頂きにある乳首に舌を伸ばし、蛇身が女体に絡む図柄の彫り物が、左の乳房であるはずなのに、右の乳房になったりしているカットがあったのは御愛敬だが、さすがは谷ナオミを撮らせたら随一と謳われた小沼作品だけのことはあった。殊に名高い生贄夫人も確かまだ観ていないはずなので、何かの機会に観てみたいものだ。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2001hacinemaindex.html#anchor000564
by ヤマ

'00. 2. 4. 平和資料館・草の家/VTR



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