美術館冬の定期上映会“アンディ・ウォーホルの肖像”


『スーパースター(Superstar)』90 監督 チャック・ワークマン
『I Shot Andy Warhol』95 監督 メアリー・ハロン
『処女の生血(Blood For Dracula) 』74 監督 ポール・モリセイ
 9作品も用意されていた企画上映のうち『バスキア』は前に観ていたからいいとしても、わずかに3作品しか観られず、残念なことをした。ことに観たかったメカス監督の『ファクトリーの時代』を逃したのが痛い。でも、『スーパースター』が思いの外に面白くて、次の上映プログラム『アイ・ショット・アンディ・ウォーホル』を興味深いものにしてくれた。

 『アイ・ショット・アンディ・ウォ-ホル』は劇映画としてだけ観れば、ウォーホルを撃ったヴァレリー・ソラナス(リリ・テイラー)のファナティックさだけが強調され過ぎていて、人物像としての彫り込みが甘い気がする。だが、ファクトリーの再現という点では、この作品の主人公であるヴァレリーのみならず、イーディやウルトラ・ヴァイオレット、銀の枕型の風船など直前にドキュメンタリー・フィルムで観たものが、ほとんど違和感のない映像で映し出されていることに感心した。
 とりわけ興味深かったのが、ファクトリーについて比較的見慣れているハレの時間としてのパーティではなく、ケの時間としての昼間の製作風景が、さもあらんという形でこの作品に再現されていたところだ。はなやかにきらびやかで騒々しく猥雑な夜のパーティとは異なり、昼間の製作風景のファクトリーの名に相応しいシンプルでニートな空間での作業的な様子が実に新鮮であった。他の部分の考証の確かさからも、このケの時間のファクトリー像は信用してもいいのではないかと思う。単に群れてわいわい騒いでいるだけで、今世紀を代表するアーティストになれるわけはないのが当たり前で、これまでウォーホルを伝えるに、こういう部分を窺わせるものがむしろ少な過ぎたのではないかという気がする。逆に言えば、それだけハレの時間の伝説的なインパクトが強烈だったということだ。

 音楽がブロンディの“Heart Of Glass”(?) で始まり、ボブ・ディランの“If Not For You”で終わった『スーパースター The Life And Times Of Andy Warholは、フィルムに重ねた音楽からも窺えるように、まさしく時代の寵児として存在したウォーホルの本質をよく浮かび上がらせていた。ウォーホルとは、大衆消費社会を生み出す産業主義によって戦後世界を席捲しつつあったアメリカン・カルチャーというものをシンボリックな形でたまたま背負わされたアーティストの名前であって、彼自身の強烈な個性を指し示しているものではないということだ。むしろ自己主張を後退させた匿名性を押し出すことで有名になった彼は、自分を主張し表現することを極力排し、時代の新しい空気を捉えることに懸命になっていたようだ。
 そういう意味では、ウォーホル自身がウォーホル的であり続けることに懸命に取り組むことを余儀なくされていたような気がする。何をどう捉え、どう発言することが最も時代的すなわちウォーホル的かということに対し、常に嗅覚を働かせていなければならないからこそ、彼はファクトリーを必要としていたのだろうと思う。また、時代の新しい空気を象徴するウォーホル的なものとは常に既知のものではないからこそ、彼の発言はいつも曖昧で不得要領な韜晦に満ちていたのではないかと思った。そして、ウォーホル的なものが必ずしもウォーホル自身ではないからこそ、彼は常にウォーホルになるために銀のかつらを必要としていたのだろうとも思った。

 今回観た三作品のなかで最も楽しめたのは、実は『ブラッド・フォー・ドラキュラ』だ。およそドラキュラ映画とされるもので、これほどまでにひよわで哀れなドラキュラは観たことがない。使用人の斧一丁で無残に始末されてしまうのだ。おまけにどちらかと言えば吸血鬼に襲われる娘のほうが加害者でドラキュラが被害者に見えるくらいで、お決まりの恐怖がどこにもない物語が不気味さのかけらもない明るい色調の元に綴られる。
 公開時の邦題でもある“処女の生血”のつもりでドラキュラ伯爵が若い娘の血を啜るたびに身体が受け付けず、のたうち回りながら嘔吐し、騙されたことを思い知る。ちっとも処女に巡り合えず、嘔吐と痙攣を繰り返すたびにますます衰弱していきながら、「いつまでこの試練に耐えなければならないのか」と天を仰ぐ姿に思わず笑ってしまう。ドラキュラ伯爵は、没落しつつある貴族の館に美しい四人の娘がいると聞き、そのなかから処女の花嫁を見つけ出そうと滞在していたのだが、使用人の若い男とセックスをした後で乙女を装う身繕いにシャワーを浴びながら貴族の次女が「洗い流せば元に戻るのよ」と言い放つのが強烈だ。花嫁は処女でなければならないというのはナンセンスな因習だが、それが処女の生血でないと飲めないという形で因習が身体的に染み付いていて、逃れたくても逃れられないドラキュラにとっては、善し悪し以前に選択の余地のないものなのだ。一度は修道女を志したこともあり、伝統的な考え方の枠組みから踏み出せないでいた長女が、結局はドラキュラ伯爵と心中するかのように死んでいったのも、この映画が伝統的な因習からの脱却と解放を時代の新しい空気だと捉えて いるからなのだろう。
 吸血鬼伝説という古典に題材を取りながら、過激で挑発的なポップ・ホラーに仕立て上げ、新しい時代の空気のもとに読み替えを図っている点では、まさしくウォーホル的な映画である。自分自身つねづね時代の空気をつかむことにおいては、映画にまさる表現媒体はなかなかないと思っているのだが、ウォーホルが殊更に映画に関心を寄せていたことが『スーパースター』において語られるのを観て、それはまさしくこういう理由によるものなのだろうと思った。


参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_200.html
by ヤマ

'00. 2.12.~ 2.13. 県立美術館ホール



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