『ふたりの女』(La Ciociara)['60]
『ライアンの娘』(Ryan's Daughter)['70]
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
監督 デヴィッド・リーン

 今回の合評会課題作は、名高い巨匠の著名作ながら未見だったものを期せずして片付けることのできるカップリングだった。両作とも、これがかの…との思いとともに観たが、図らずも共に戦時の多大なる政治的混沌のなかで女性が暴力に晒される映画だった。

 先に観た『ふたりの女』は、反戦映画だったことさえ知らず原題と懸け離れたタイトルに唖然とした。とても二十代半ばとは思えないソフィア・ローレンの貫録に圧倒された。

 イタリア内部でもムッソリーニ派と反ムッソリーニ派が対立するなか、ドイツ軍が駐留し、疎開してきたチェジラ(ソフィア・ローレン)が美男子だと感心するロシア兵やら、ミケーレ(ジャン=ポール・ベルモンド)が村人に支援を求めるイギリス兵、モロッコ兵を率いる連合軍【フランス】やら、アメリカ軍の進駐があるという、第二次世界大戦末期のイタリア戦線における複雑さはあるにしても、軍隊は決して人民を守ったりしないことを鮮烈に描いている作品だった。

 十三歳に満たない娘ロゼッタ(エレオノラ・ブラウン)共々、廃墟となった教会で、当時は友軍となっていたはずの連合軍兵士の集団による輪姦に晒されてマリア様の前で…娘に…殺すよりも酷いことをと打ちひしがれるばかりか、自分をこんな目に合わせたのは疎開に連れ出してきた母親だ、と言わんばかりの敵意のまなざしと自棄になったような振る舞いを娘から見せつけられるチェジラの悲痛が何とも厳しい映画だった。

 チェジラが、母娘の女ふたりだけで疎開をし、連合軍進駐の混乱状態のなか再び女ふたりだけでローマに帰ろうとした迂闊な無防備さを以て「自己責任」だの「自業自得」だのとするのが、当世風の自己責任論者の言いそうなことだが、その類の自己責任論なるものが、如何に酷薄であるかを痛感させてくれる作品でもあったように思う。娘を演じたエレオノラ・ブラウンは、かなりの美少女だったように思うが、その後、どういった映画に出演しているのだろう。


 ちょうど十年後の作品『ライアンの娘』は、序曲から始まる2枚組ディスクの大作だった。DVDとは思えない画質の良さと画面の充実に驚いた。序曲よりも終曲のほうが有名な珍しいパターンだと思う。

 崖から海へ落下したローズ(サラ・マイルズ)の白い傘で始まり、風に煽られて帽子が飛び落ち、無残に髪を刈られた頭を晒していたローズに夫のチャールズ・ショーネシー(ロバート・ミッチャム)が、慌てて拾い届けていた最後で終わっていた本作は、アイルランド独立軍を率いるティム・オリアリー(バリー・フォスター)が登場する後半からは面白くなったものの、前半は、なんだかチャタレイ夫人の恋人のようなよろめきドラマを何故これほど時間を掛けてじっくりと撮り上げているのか不可解なほどだった。

 第一次大戦中と思しきアイルランドにおけるドイツ軍とイギリス軍とアイルランド独立軍といった政治的混沌のなかで、ベートーヴェンを愛聴するドイツ贔屓の田舎教師チャールズの知性に惹かれ、歳の差婚を自分から求めた十九歳のローズが、コリンズ神父(トレヴァー・ハワード)の説いた3つの結婚の目的【1.単調な日々への労り合い 2.子を成し教徒を育む 3.肉欲の満足】が満たされないまま、今度はイギリス軍の傷痍将校ドリアン少佐(クリストファー・ジョーンズ)の若さと美貌に惹かれるまま不倫の恋に走り、地元の青年には一顧だにせぬ姿が村の人々の反感を買っているという物語だったように思う。

 終盤でローズが村人たちから受けるリンチは、直接的にはオリアリー密告という濡れ衣が名目だったから、いかな自己責任論者でも自業自得とは言い難い厄災だと思うけれども、上述した反感が根にあってこその憶測によるものなれば、英軍将校との不倫に走った自業自得だと彼らは言いかねない気もする。

 迷えるローズの魂の遍歴というには、まさしく神父が諭した夢を見るのは仕方ない。だが、育ててはいけない。身を滅ぼすぞのとおりに運んでいく展開に、難儀を被ったのは、教職を追われることになったチャールズや遂には命も落としたドリアンのほうだと思わぬでもなかったが、午後の曳航でも印象深かったサラ・マイルズの好演と画面の格調によって、最後のコリンズ神父の言葉やはり別れるのか、私には疑問だ、それが餞だとの言葉に納得感があったように思う。

 課題作を選定した主宰者によれば、翻案の元は『ボヴァリー夫人』らしい。成程、そういうことかと思った。フローベルの小説は未読だけれども、ソクーロフによる映画化作品は十三年前に観た覚えがある。同作に描かれていたほどの悪意は、ローズには向けられてなかった気がする。

 それにしても、当地出身女優のW不倫が袋叩きにあっているなかで観ると、ローズを吊し上げていた村人たちにとって密告は口実にほかならず、真の動機は英軍将校との不倫だったのではないかとの思いが湧いて来ずにはいられない映画だった。妻の不倫を初期段階から察知しながら見て見ぬふりをしてきたことを悔いていたチャールズがローズに掛けていた妬みだよとの台詞が効いていたように思う。


 合評会では、ライアンの娘ローズをただのろくでなし娘に感じさせなかったサラ・マイルズと、画面の格調が見事だったというのが衆目の一致するところだったが、神父がローズに諭した結婚の目的に絡めて、チャールズは初夜に首尾よく成就できずにいたのではないかとの意見が出て、成程と思った。以来、セックスレスになっていたのだとしたら、ローズの結婚生活への失望にも無理からぬものがあることになる気がするし、チャールズが見て見ぬふりをしたのも単なる歳の差婚への引け目だけではない実体のあるものになって納得感が増してくる。もっともそれでは、チャールズの妻の不倫という事態への冷静さが別なニュアンスを帯びてきて、まさにチャタレイ夫人の恋人になってしまい、翻案の元が『ボヴァリー夫人』だということの根本が違ってくるような気もしなくはない。

 また、濡れ衣を着せられたローズが真犯人は父トム・ライアン(レオ・マッカーン)だと恐らくは気づきながら、父との別れに際して言挙げなかったのは何故かとの提起が面白かった。僕は、言挙げることで何も得られるものがないことをローズがよく弁えているからだと思った。

 思い込みの激情に駆られて集団リンチに掛けたりする村人たちとは異なる、冷静な賢さを備えている女性であることを示すと同時に、チャールズとの結婚にしても、ドリアン少佐との不倫にしても、単に激情に駆られてのことではない“選択”であったことを示しているように感じた。それが、たとえ少佐との不倫を当初から知っていて黙して言わなかった夫チャールズから学んだことだったにしても、その意を解するだけの知性を備えているということだし、恋の熱情は、そのような賢さで御することのできるものではないことも示していたように思う。

 他方、『ふたりの女』については、常々民衆の側に寄り添う立ち位置のデ・シーカにしては、チェジラ母子の無謀な帰還を制止せず、みすみすミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)も死なせてしまった村人たちをも批判している視線を感じて珍しく思ったという意見が興味深かった。僕にはそこまでには映ってきてなかったのだが、そういう意味では、人々の愚かさを浮き彫りにしている点でも共通していたのかと思わぬでもなかったからだ。

 いろいろ他者の意見を伺うのは、実に面白い。『ライアンの娘』など、どう観ても後半のほうが面白いと思ったのに、前半のほうが好かったという意見もあって驚いた。
by ヤマ

'23. 6.13. スターチャンネル2録画
'23. 6.15. DVD観賞



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