『午後の曳航』(The Sailor Who Fell From Grace With The Sea)['76]
監督 ルイス・ジョン・カリーノ

 大学時分に早稲田松竹で観たような覚えがあるのだが、手元の記録には残っていなかった。ほぼ四十年ぶりの再見となる。よく覚えていないものの印象として残っていたのは、あまりメリハリの利いた作品ではなくて、棚ぼた食べたらエライ目に遭ったというような映画で、覗きが鍵を握っていたということくらいだったが、この歳になって観直すと、なかなか刺激的な作品だった。

 同僚とのふとした話から借りたDVDで観たのだが、三島由紀夫が戯曲『サド侯爵夫人』['65]を発表する前々年に書き下ろした同名小説の映画化作品を観ながら、チーフと呼ばれる知的で残酷な早熟少年の語る“純粋で完璧な秩序世界”におけるインモラルな感性に対して、サドの影を観たような気がした。

 そして、劇団シアターホリックの孤独、あるいはマルキドサドに学ぶ幸せな人生の過ごし方をちょうど前々日に観劇していたことが何だか奇遇のように感じられ、印象深かった。また、ちょうど一か月前に三十二年ぶりに再見したミツバチのささやき['73]に観た“子どもの持つ秘密世界の現実感の手触り”との対照ぶりが感慨深かった。原作小説を先に読んでいた『蠅の王』['90]を観たのは二十五年前だが、そこに描かれていた少年世界の持つヒエラルキーと残忍さの恐さに通じるものも窺えたような気がする。また、チーフがある種の威圧で従えている仲間に与えていた愉悦と、ジム(クリス・クリストファーソン)がジョナサン(ジョナサン・カーン)の母(サラ・マイルズ)の意に反して衆人環視の喫茶店で密やかに性的刺激を加え続けて与えていた陶酔には、相通じるものが潜んでいるように描いていたところが目を惹いた。

 それにしても、一方的に“海と共にある栄光から堕ちてしまった航海士”だと断じられても、ジョナサンたちの世界のほうは覗き知りようのなかった大人たるジムにとっては、理不尽以外の何物でもないわけだが、大人世界のほうを覗き観られたジョナサンの母は、あの後どうなってしまうのだろう。事件が発覚すれば、チーフの奸智によってジョナサンが主犯にされ、ジムと母親の関係への嫌悪と怒りが動機とされるに違いない気がするのだが、母は息子に対してどのように臨むことになるのだろう。

 それはともかく、チーフと呼ばれる少年に三島が幼き日の自身をかなり色濃く投影しているように感じられた点が、今回特に目を惹いた。そして、その幼き日の記憶がサド文学を知ったときの三島に強く響いたのではないかという気がした。僕自身には猫のみならず哺乳類の生体解剖をした経験がないものの、小学生の時分に、昆虫やカエルには随分と残虐な仕打ちを重ねた記憶があって、本作を観ながらドキリとしたのだけれども、もっとドキリとしたのは、再見して最もインパクトのあった生体解剖のことを僕がまるで覚えてなくて、自分が子どもの時分に覗き見た覚えのない大人の性交窃視の場面のほうを覚えていることだった。

 三十年前に観た海と毒薬['86]の生体解剖のことは覚えているのに、『午後の曳航』のほうを覚えていなかったのは、何だか自己防衛だったりするのかもしれないと思ったから、少々狼狽えた。そして、四十年前に観た当時も強い刺激を受けたにもかかわらず記憶のほうに残さなかっただけなのかもしれないと思うと、今さらながらに“人の記憶というものの危うさ不確かさ”を想わずにいられない。

 さすれば、最初は母親とジムの性交を覗き観て美しい光景だと感じながらも、陸(日常)に堕ちてきたジムが母親に執着する姿に失望し醜いと憤っていたジョナサンは、もし事件が露見しないままに台風クラブ”の時期を過ぎてしまえば、わりと普通の大人になっていくのだろう。しかし、チーフのほうは、もしかすると三島のように自死を遂げる羽目に至るのかもしれないなどと思った。




参照テクスト:藤本ひとみ 著『侯爵サド』を読んで
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2017/39-1.htm  
by ヤマ

'17.11.23. DVD観賞



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