『チャタレイ夫人の恋人』(Lady Chatterley's Lover)['81]
『チャタレイ夫人の恋人』(Lady Chatterley's Lover)['15]
『チャタレイ夫人の娘』(The Daughter Of Lady Chatterley)['94]
監督 ジュスト・ジャカン
監督 ジェド・マーキュリオ
監督 エマニュエル・グリセンティ

 三ヶ月ほど前に未見のチャタレイ夫人ものを続けざまに観たところ、映友から、この際、ほかのもまとめて観てみる?という有難い申し出を受けて借りたものだ。折しも二十八年ぶりにマディソン郡の橋を再見して、ロバートが井戸の水を浴びる姿を見つめる母フランチェスカのことを娘キャロリンがチャタレイ夫人のようだと嘆息する場面を観たこともあって、本作では、邦画婉という女のような薪割りだけでなく、水浴もしていたような気がして、四十年ぶりに再見してみたところ、案の定だった。全裸になって体を洗い、水を浴びるオリヴァー・メラーズ(ニコラス・クレイ)を覗き観て、手に力が入り、思わず小枝を折って音を立ててしまうコニーの姿が映し出されていた。

 コニーを演じたシルビア・クリステルの御年二十九歳時分の肌の綺麗さに改めて感心するとともに、ニコラス・クレイの男性器にしか暈しを掛けていない画面の美しさに、やはり映画はこうでなければいけないと思った。

 戦場での負傷による下半身麻痺で不能となった夫のクリフォード卿(シェーン・ブライアント)から、君もつらいだろうし跡継ぎも必要だと愛人を持つことの了承を得ていたコニーが、それをどのように受け止めていたかについて、夫の冷淡と心遣いの双方が窺えるとともに、背徳感の低減にも繋がっている感じがあったようにも思う。空しい悔恨に憑りつかれている老いた女ほど悲しいものはないとコニーに説いていたのは、彼女と同じく二十四歳で孤閨をかこつようになったという看護師ボルトン夫人(アン・ミッチェル)ではなかったが、夫人が昔からめったに自分を見せない男だと言っていたメラーズの逞しく美しい身体に魅せられ、自ら求めていったコニーがメラーズから、俺は“Fucker”か?と問われ、No,lover!と訴えるさまに、ある種の普遍性があるように改めて思った。

 妻コニーに対して私は自分勝手だ、君にはふさわしくないとも言っていたクリフォード卿の人物像が、コニーに比して遥かに複雑で、なかなか興味深かったように思う。ただ、不能になれば、若妻の身体にいっさい触れなくなるものかなという気はしないでもない。

 『マディソン郡の橋』では、二人が駆け落ちすることなく、永遠の四日間を得ていたが、朝まで共に過ごすことを求める lover に応えて誰かと寝る意味を初めて知ったと後朝の別れに際して漏らしていたコニーがまた一夜をともにしたいと言っていたメラーズを探し当て、チャタレイ家を出る選択をした後もなお、かの一夜が果して、永遠の一夜になり得たか否かは、実に怪しいところだという気がする。ただ王朝は生めないし、画家にもなれないが、チャタレイ家の名を不滅にすると言っていたクリフォード卿の願いは、炭鉱事業によらずとも、作家D.H.ロレンスによって間違いなく果たされていると思った。


 翌日に観た八年前の21世紀版『チャタレイ夫人の恋人』は、バストトップを画面に晒していたのが、クリフォード卿を演じたジェームズ・ノートンとオリヴァー・メラーズを演じたリチャード・マッデンだけであり、さらには劇中コニーと呼ぶのは姉のみというチャタレイ夫人ことコンスタンス・リードを演じたホリディ・グレインジャーに気品が欠けるという実に当世風の配役であることが、前日に観た '81年版との落差の大きさを感じさせて、まさに隔世の感を覚える作品だった。

 炭鉱事故で始まったオープニングに録画番組を間違えたかと錯覚したが、メラーズがチャタレイ炭鉱の坑夫で、第一次大戦従軍時には、指揮官クリフォード卿と面識さえない部下だったという設定になっていた。しかも思い掛けなくも、チャタレイ夫人は不能となった夫と同衾をしていて、大いに意表を突かれた。それでも夫が自分に触れて来ないことに失意を抱いてはいたが、作品的には、彼女の煩悶以上に、クリフォードの引け目や失意に焦点が当たっていたように思う。跡継ぎを得るための妊活に、クリフォード卿が多大な苦痛に耐えながら、下半身のリハビリ装置に脂汗を流す姿が映し出され、大いに驚いた。

 戦争の傷跡により、跡継ぎを得る生殖能力を失いながら奮闘するクリフォードと、従軍中に妻が他の男の子供を身籠ったことによって人生を諦めていたと漏らすメラーズの対照が興味深く、コンスタンスによって生きる歓びを得たというメラーズが村人にも奥様にもなれるが、両立は無理だと言いながら、こんな(格差)世界に子供を送り出すのは気の毒だと踏み止まろうともしつつ、それは人生からの逃げだとコンスタンスから咎められ、苦悩する姿が目を惹き、なかなか新鮮味のある作品になっていたように思う。

 性愛的側面よりも、身分や立場に縛られることと自由についての問い掛けを描き、炭鉱経営に勤しむ有産階級と炭鉱事故でもろくに補償金を得られない労働者階級の住む世界の違いを問い掛けてくる側面が強いように感じられる作品だったように思う。クリフォード卿の看護人たるボルトン夫人(ジョディ・カマー)の設定を炭鉱事故で夫テッドを亡くしながら僅かな補償金をしかも週給でしか払ってもらえない境遇にしたうえで、肺を病んで炭鉱夫を馘首されたと思しきメラーズとは旧知の夫人が、チャタレイ家の跡継ぎ目当てに彼をチャタレイ夫人が利用したと誤解して、クリフォード卿に対して妻を妊娠させたのが使用人であることを告げる場面と、それに続く場面でコンスタンスからメラーズを愛しているのだと告げられ、その思い掛けなさに誤解による告げ口を詫びる場面がなかなか好かった。二年前に観たフリー・ガイで目を惹いたジョディ・カマーに思い掛けなく出会い、ほくそ笑んだ。

 また、メラーズと共にクリフォード卿のもとへ離婚の申し出に赴いた際に、メラーズからの強弁には応じなかったクリフォード卿に対して、コンスタンスが言った私が恋したころの貴男の素敵なところがまだ残っていると信じているとの言葉に、部屋を出て去って行く二人に向って炭鉱事務所のベランダに出て、離婚には応じる、僕にはこちら(事業)の世界が残っていると叫ぶ姿を、とても好もしく観た。人を動かすには威嚇や強弁ではなく、自尊心に働き掛けるほうが遥かに効果があるとしたもので、それは人に限らず国同士でも同じことではないかと思わずにいられなかった。


 続いて観た『チャタレイ夫人の娘』は、イタリア版だからか、メラーズの名がメルトンになっていたが、ジュリー・クリフォードと呼ばれていたチャタレイ夫人の娘(ソランジュ・クソー)が、母の遺した手記によって知ったメラーズに対して性的挑発を繰り返しつつ妄想に耽る生娘という設えの物語だった。

 彼女の父親が誰という設定なのか判然としないまま、中途半端な場面が繰り返され、娘ジュリーも母チャタレイ夫人もマーサ叔母も女中も、軒並み股間の暈しが映るわりに男のほうは誰も尻たぶすら見せないという有様で、20世紀初頭のイギリス南部と言いながら、今風のトラクターが走り、今風のガスコンロを備えたキッチンであったりと、構成も展開も趣向も実に御粗末な、なかなか難儀な85分という作品だった。ともあれ、こうなると、残すダニエル・ダリューがチャタレイ夫人を演じた1955年のマルク・アレグレ版を観てみたくなってきた。
by ヤマ

'23. 5. 7. DVD観賞
'23. 5. 8. シネフィルWOWOW録画



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