美術館「話の話 ロシア・アニメーションの巨匠 ノルシュテイン&ヤールブソワ」展関連上映会

“ノルシュテインが親交を結んだ監督の作品”

『外套』['60] 監督 アレクセイ・バターロフ
『鏡』['75] 監督 アンドレイ・タルコフスキー
『孤独な声』['78] 監督 アレクサンドル・ソクーロフ
『ボヴァリー夫人』['89='09] 監督 アレクサンドル・ソクーロフ
 前日にノルシュテインが多大な影響を受けたセルゲイ・エイゼンシュテイン監督作品を観た後での「ノルシュテインが親交を結んだ監督の作品」ということでの4本立てだ。僕の既見作は'81年に観た『鏡』のみで、これも嬉しい企画だった。
 半世紀前の作品『外套』は、ロシアの文豪ゴーゴリの短編小説の映画化したものらしいが、風采の上がらない哀れな小役人アカーキー・バシマチキンを演じた俳優の演技の充実と巧みなライティングによって、なかなか風格のある作品になっていたように思う。しかし、可愛い赤ん坊のときの名付けの場面から始まっていただけに、父親の名を取ってアカーキーと名付けられたバシマチキンの人生が何とも痛ましく映って少々堪えた。何とも救いのない映画だったような気がするが、これが現実だということなのだろう。

 29年前に観た『鏡』については記録のみで記憶がなかったのだが、こういうスタイルで35mm作品の映画になると思っているからこそ撮りあげていたことが凄いと改めて思った。語り手のイメージにある若き日の母マリアと妻ナターリアを同じ女優が演じ同じ顔だちをしているところに些か苦笑を禁じ得なかったが、その二人の人物像を通して背後に透けて見えていたのは“女性不信”だという気がしてならなかった。また、記憶とイメージが人の意識に及ぼす影響の大きさとありようというものを見事に視覚化している作品だという気もした。強い論理性の元に非論理の世界が構築されているところが刺激的だと思う。
 その『鏡』の三年後にソクーロフが卒業制作として完成させたのが『孤独な声』らしいが、こうして並べられると、タルコフスキーの『鏡』と作品のタッチが酷似していることを教えられたような気がする。本作をタルコフスキーが高く評価し、後年「87年モスクワ国際映画祭A・タルコフスキー記念特別賞」受賞となったのも、頷けるように思った。両作のカップリング上映は、美術館のナイス・セレクトだ。

 だが、4作品のなかで最も刺激的で面白かったのは、そのソクーロフの新作というか旧作というか「89年にようやく完成させたが、ロシアでは公開できず、20年もの長きに渡って封印されていた作品。その作品を、監督自身が再編集」したものだとチラシに記されていた『ボヴァリー夫人』だった。中年女性の不倫の多情多淫を、その愚かしさと醜さという視点からここまで率直に描いている作品を僕は他に知らず、崩れた肢体も露に生々しくエマ・ボヴァリーを体現していたセシル・ゼルヴダキが圧巻だった。陰毛も男性器も修正箇所無しというのは立派なことで、さすがフローベール&ソクーロフの高名の霊験あらたかぶりに感心させられたのだが、それにしても、ボヴァリー夫人が男といるときは常に蝿の羽音をさせていた演出というのは、かなり凄いのではなかろうか。
 お人好しなだけで無能な田舎医師の夫と囲んだ食卓に尋常ならざる数の蠅が飛び回っていたのだが、この場面は、あの音が蝿の羽音であることを印象づけるためのもので、狙いは、エマ・ボヴァリーが男といるときに常に蠅の羽音を響かせることで、彼女が耽っている情事に対する色付けを効かせるところにあったような気がしてならなかった。隣家のロドルフとの野外セックスの場面で、叢に仰臥した全裸のエマが乳房を揉みしだかれながら「お〜メアリー・スチュアート、メアリー・スチュアート」とお馬鹿な連呼をする演出を施していたソクーロフには、些か悪意に近いようなものがあるようにすら感じた。タルコフスキーが『鏡』で窺わせていた“女性不信”より遥かに強烈だったように思う。
 だが、ソクーロフが侮れないのは、とんでもない借金を負う騙しに乗せられてまで情事に耽るボヴァリー夫人に対して、ベッドで愛人に「お金、お金」と無心させる姿まで描出しながらも、あくまで愚かさ醜さの露呈に留まることを守り、決して卑しさや下劣さを宿らせなかったところだと思う。しかも、ありがちな“哀しみ”の描出なんぞに逃げるような安易さを断固として拒んでいるところがいい。むしろ、上流とまでは言わないにしても、ある種の気品を彼女に付与しているところが素晴らしく、それゆえに込められた悪意が途轍もなく効いてくるわけで、大いに感心させられた。
 思えば蠅は、蛆と違って腐肉にのみ湧きたかるわけではなく、極上の料理にだって蝿さえいればたかることになるはずだ。そういう意味では、蝿のたかるものに何をイメージするかは、観る側に委ねられてもいるわけで、ここで作り手から“込められた悪意”は二重に機能してくるようにもなっていたように思う。そのうえで、カーセックスならぬ馬車での全裸セックスの場面では、馬の足音と重ねて車のエンジン音を被せていたから、作り手は、先日予告編を観た『食べて、祈って、恋をして』などにも顕著に窺えるように感じられた“ボヴァリズムにまみれている現代女性”を示唆する意図があったのだろう。
 そのようにいろいろな意味で痛烈な作品だったからか、恐らくは当ての外れた女性客ではないかと思われるが、途中退場者が何人もいる様子だった。
by ヤマ

'10. 8.15. 美術館ホール



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