『42-50 火光』
監督・脚本 深川栄洋

 劇場表のガラス戸掲示板に貼り出されていたプレスシートらしきものによれば、若い時分に夢見た映画監督にそれなりになれたなかで、自主映画という自分の原点に立ち返った映画を作りたくて挑んだ作品らしい。自らいわば私小説のような映画と言っているだけあって、煮え切らない生々しさの籠った感情が掬い取られているように感じた。

 キャラクター的人物としてのステレオタイプの「いい人」とは一線を画した人物造形が、語り手たる脚本家の裕司に施されていて、大いに感心した。主演の桂憲一がボヤっとした繊細さとも言うべき高度な表現力で実に巧みに演じていたように思う。食事時にはいただきます、愛してるよと交わす中高年夫婦のルーティーンを観ながら、些か意表を突かれたオープニングに対しては、再婚して二年目で子供ができないことにまつわる妻の佳奈(宮澤美保)からの妊活要請にも、女優としての彼女が撮影現場での演技として間違っているわけではないが、母性が滲み出て来ない演技が物足りないと監督から言われたことに彼女の負けん気が反応したことが窺えつつ、それを受容することに抵抗感を覚えているわけではない裕司の姿が納得感のある形で描かれていたことによって、すんなりと了解できる運びになっていた気がする。

 佳奈のような負けん気が強くて頑張り屋さんとも言えるタイプの女性を、僕は少々苦手としているけれども、土壇場では取って置きのへそくりをそっくり差し出す気っ風の良さも備えていた彼女をどう観るのか映友に訊ねたところ、なんだかいつもイライラしていて、自信に溢れず、最後のシーンの笑顔が良かっただけという僕以上に手厳しいコメントが返ってきて驚いた。

 旧知の大女優(加賀まりこ)が裕司に言う女優と暮すのは大変でしょが効いていて、確かに佳奈に窺える厄介さに失笑させると同時に、裕司の実母の四連続の約束忘れや姉たちの不躾、想像力欠如と身勝手さ、などから、何も女優に限らぬ女性全般だと裕司は思っているに違いない可笑しさを炙り出していた。

 それにしても、辛抱強い裕司だった。あれで茫漠たる面持ちで独り海を眺めるだけで済んでいるのは驚異的だと思う。それを観ていると、子供も成したらしい先妻との離婚原因は何だったのだろうと思わないではいられなかった。また、不妊クリニックに勤めていたことのある臨床検査技師の若い女性から、歳がいってからの不妊治療はやめたほうがいいと心底思って、子供を産むのは二十代のうちにしようと決めたという話を聞いたことがあるのを思い出した。

 かぎろいという言葉は、学校時分に習った覚えのある柿本人麻呂の「ひんがしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ」くらいでしか思い当たらない言葉なのだが、あけぼの前の仄かな光を監督・脚本を担った深川栄洋は、何に対して観たのだろうと思った。自主製作映画なるものがキーワードと言えるのかもしれない。深川作品は、これまでに狼少女『半分の月がのぼる空』『神様のカルテ』ガール『白夜行』『トワイライトささらさや』『先生と迷い猫』『いつまた、君と』と観ているけれど、日誌にしている割合は少なかった。だが、「深川栄洋 return to mY selF プロジェクト」side A の本作を観ると、打って変わって、ダークな探求をした作品との side B 『光復』を観てみたくなった。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/5072801839486025/
by ヤマ

'22.10.29. あたご劇場



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