『女は二度生まれる』['61]
『清作の妻』['65]
監督 川島雄三
監督 増村保造

 先に観た『女は二度生まれる』は、四年前に「大映創立75年企画“大映女優祭”」でスクリーン観賞して以来の再見となった。今回のカップリングで課題作とされたからだが、スクリーン観賞を二回している映画をDVDで観るのは初めてかもしれない。色香たっぷりなのに無垢な明るさを放射している点でまるでモンローのようだったと記したとおりの若尾文子に観惚れていた。

 矢島(山茶花究)に答えただって、すぐ後じゃ…ふふんの口調にくらくらし、寿司屋での自家発電ばかりじゃつまんないでしょの屈託のなさに唸らされ、同じアパートの住人である大学生の里子(江波杏子)に言うでも、我慢できなくなると思うけどにやられてしまった。

 作品的には、十四年前に観たときの日誌に綴ったものと変わりなく映って来たが、合評会では、些か唐突に終いを付けていた本作のその後をどう観たか、訊いてみたいと思った。併せて合評会を主宰する映友が男たちの配し方が抜群で、数多くの男たちをテキパキと描き分け、それぞれに違う顔を見せる若尾文子を描き分けます。旦那になる山村聰とは生活の為と女の顔。なんとかものにしたい山茶花究とは芸者の顔。恋焦がれる大学生藤巻潤とは乙女の顔。映画を共にする十七歳の高見國一とは姉の顔。大工の潮万太郎とは、女将の顔。カラダだけが目当ての上田吉二郎とは、営業の顔。と記していた「顔」のどれに最も艶っぽさを感じたか、を訊いてみようと思った。


 翌々日に観た『清作の妻』は、二十年前に当地での“増村保造映画祭で観て以来の再見だ。当時の日誌には貧しさゆえに小娘のときから妾奉公に出たことで村人から蔑まれ、疎外されるお兼(若尾文子)の気丈さと直情の生み出す胆力というものと清作(田村高廣)が愚劣な人間界で模範的と称されたことのもたらす空疎との対照が、頭で考える男の正しさよりも、身体性で捉える女の正しさのほうが遥かに正鵠を射ているということが鮮烈に表現されていた。と記してあったが、清作がこれが皆の見納めかもしれんのと言ったのとは全く異なる意味で、まさしくそのとおりになったパワフルな物語を観ながら、つくづく口さがない村人たちの愚劣さにうんざりさせられると共に、作り手の意図的な悪意と言うか、確信的な糾弾を感じた。明治の日露戦争当時の日本とは時空を異にするイージーライダー['69]で、最後にキャプテン・アメリカ(ピーター・フォンダ)たちを抹殺して排除した農夫に相通じるメンタリティだという気がする。

 世間の大勢に盲従して、観るべきものを観ようとしないからこそ、日清戦争の勝利に浮かれ、日露戦争では闇雲に戦死兵を重ねた旅順攻略司令官を軍神と崇め、この後、日中戦争、太平洋戦争へと突き進む愚を犯すことになるわけだ。脚本を担った新藤兼人が最も描きたかったのは、そういう村人たちの愚劣さであり、そこから決然と袂を分かった清作夫婦の姿だったように思う。

 為政者たちが見誤って愚を犯すのは、権力や利権といった彼らの目が眩んでもおかしくないものが傍らにあるのだから、不愉快ながらも無理からぬ面があるけれども、目が眩むような利権や権力と程遠いところにいながら、その愚に盲従してしまう庶民が余りに多いことへの嘆きと憤りが込められていたような気がする。お兼によって目力ならぬ“女力の極み”を描出していた点と合わせ、いかにも新藤らしい脚色のように感じる。

 それにしても、実母(清川玉枝)からさえ“根性曲がり”と言われるお兼の情の強(こわ)さに圧倒されつつ、清作によって解されて曲がりから直情へと変貌していくさまに唸らされた。一方、清作も、兼の剛直に導かれるようにして世間を憚らぬ己が本心に覚醒していく。そして、世間の大勢に盲従した模範青年たることよりも、めくらになり、卑怯者になり、独りになって、やっと…普通の人間になれたと模範青年への囚われから解放されることで得る生の実感を、互いに固く抱き合って噛み締めている二人の姿に心打たれた。目が見えるのに観ようとせず盲従することの愚には堕したくないものだと改めて思う。


 合評会では、『女は二度生まれる』のラストカットに小えんこと知子の自殺を予感した者は一人もいなかったことが少々意外だった。十四年前の日誌で触れた一回り余り年下の某君のみならず、随分と前に二度ほど会ったことのあるネットの映友女性も再出発としてのハッピーエンドなのか、それとも……と悩んでしまうと書いていたからだ。僕自身は、パワフル文子に死の影なんぞ思いも掛けないから、当時の日誌にも記したように家族連れの文夫の姿を見て、憂さの種が男なら、憂さ晴らしもまた男であるような我が身の哀しさに小えんが覚醒し、初めて自分から生まれ変わろうとする意思を固めたように観ていたから、少々驚いたわけだが、メンバーの誰からも自死に与する意見が出なかったことには、それはそれでまた意表を突かれた。

 主宰者映友が列挙した「顔」については、恋焦がれる大学生藤巻潤との乙女の顔が二人、大工の潮万太郎との女将の顔が一人、唯一の女性メンバーからはあまり顔の違いを感じなかったとの意見が返ってきた。彼女によれば、若尾文子の魅力は充分に分かるけれども、とことん男性目線の作品で、ラディカル・フェミニストからは叩かれそうな内容に、彼女自身も複雑な思いで観ていたそうだ。

 僕は、山茶花究の演じる矢島と相対しているときの小えんが、最も目を惹いた。他のどの男と対しているときも何処か構えのようなものがあって、映友が言うところの「女、芸者、乙女、姉、女将、営業」に沿えば、芸者のときが最も自然体のように感じられるほどに、いわゆる玄人さん世界に馴染んでいることがよく伝わってきたからだ。だからこそ彼女は、素人女性のような家庭持ちなど考えたこともないわけで、筒井の妻から“泥棒猫”のように言われることが我慢ならず、若い素人女性なのに玄人の自分が驚くような性の駆け引きをあっけらかんと語る里子に唖然とするのだろう。おそらくはまだ幼い時分から斯界に育ち、芯からの玄人女性でありつつ、置き屋で酔っては乱れる同僚の同格芸者とは全く違って、枕芸者生活の荒みもやつれも見せない真正玄人だったように思う。

 知子は、言わば、自他ともに認める玄人だったからこそ、家庭を持つことなど埒外だったのだろう。そこに衝撃を与えたのが、粋が売りの板前世界の住人で店を持つのが夢だと言っていた文夫が思い掛けないほど結婚相手の連れ子と馴染み、家庭的な姿を見せていたことだったような気がする。芸者に舞い戻った小えんの元に駆けつけてきた矢島の求める夜伽を拒み、牧(藤巻潤)から頼まれた外国人接待も拒んで、女将から芸者商売の引導を渡されたも同然の状況にあって、亡き筒井(山村聡)から勧められていた芸事の道へと向かうこともきっぱり断ち切ったのが、筒井の形見とも言える腕時計を孝平(高見國一)にくれてやったことの意味なのだろう。そして、夢にも思わなかった“素人に生まれ変わる道”を文夫に倣って選ぶことにしたというのが、当初の上高地行きを止めたラストシーンの持つ意味だったような気がする。だからこそ『女は二度生まれる』となるわけだ。

 今回、主宰者映友によって“女の愛のエゴイズム、女優若尾文子”と括られたカップリングに対して、確かに共通する部分もあったけれども、『清作の妻』では一途な、振り切れた女の狂気と愛憎、『女は二度生まれる』ではライトな愛への揺れ動きのようなものを感じたという意見も出て面白かった。五寸釘を打ち込むほどに清作唯一人に打ち込んだ兼と、主宰者映友が言うところの女・芸者・乙女・姉の顔で揺れ動き四人を誘った小えんの対照を見事に演じ分けた女優若尾文子作品のナイスカップリングだったと思う。

 その主宰者映友によれば、両作とも公開当時の評価は思いのほか低かったそうで、不思議でならなかったようだ。何故だと思うかと問われ、おそらく当時は、本作に顕著な女優若尾文子の圧倒的な存在感の前に、その途轍もなく強い光に目が眩まされて他の部分が見えにくくなったのではないかと返すと、至言だと褒められた。




『女は二度生まれる』
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2007ocinemaindex.html#anchor001621
by ヤマ

'22.10.23. DVD観賞
'22.10.25. DVD観賞



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