『MEN 同じ顔の男たち』(Men)
『ディリリとパリの時間旅行』(Dilili à Paris)['18]
監督・脚本 アレックス・ガーランド
監督・脚本 ミッシェル・オスロ

 趣味の悪さが対照的な作用を印象づける組み合わせになった。たまたま連日で観たためにそうなったわけだが、その違いはどこから来るものなのだろう。なかなか興味深いところだ。実写とアニメーションとスタイルは異なるが、両作とも監督と脚本を同一人物が担っている作家性の強い作品だ。

 先に観た『MEN 同じ顔の男たち』は、レズリー・ダンカンの歌うLove Songに懐かしさを覚えつつ、僕の好きな緑色の協奏曲のような画面だなと悦に入っていたら、まったく男って奴はどいつもこいつも始末が悪いというような映画だった。これはきっとハーパー・マーロウ(ジェシー・バックリー)の夫ジェームズ(パーパ・エッシードゥ)が出てくるに違いないと思い始めてからも、なかなか勿体を付けていたが、それにしても、おぞましい妄執ヴィジュアルだったと苦笑した。ネットの映友から、人間マトリョーシカだと言っている人がいると教わって、確かになどと思いながら、よもや上の口からとまでは思い掛けなかったことを思い出した。そして、当初は恐怖に慄いているように映っていたハーパーがこの段に至ると何だか呆れ顔になっていて、なるほど呆然というのはまさしく呆れ顔なんだと納得しつつ、妙に可笑しかった。

 邦題の同じ顔というのは顔そのものではなく“側面”というニュアンスなのだろう。だが、貸家の持ち主(ロリー・キニア)、牧師、村人、警察官、変質者と思しきヌーディスト、突如暴力的に切れてしまうジェームズといった何とも気色悪い男たちを観ながら、これを以て男たちに共通する一面と言われても心外な気がしなくもない。人間マトリョーシカの部分のみならず、何とも悪趣味な気がしたが、悪趣味映画自体は、わりと嫌いではない。

 アレックス・ガーランドの監督デビュー作『エクス・マキナ』['15]を観たときに意識の存在の測り方、記憶の持つ意味、いずれもかねてよりの僕の関心事だけに、より楽しめた。おまけに目にも美しくて、文句なし(あは)。とメモに残してある部分は、本作にも継承されている気がするが、それ以上にケイレヴ(ドーナル・グリーソン)に問われてネイサン(オスカー・アイザック)が語っていたようなデータ集積を図れば、エヴァ(アリシア・ヴィカンダー)に男性不信が植えつけられるのは、記憶を剥いでもDNA的な蓄積として、むしろ当然の帰結だという気がした。停電で全開になるよう修正してあったシステムを結界を出た後、エヴァが直ちに更に改修していたということなんだろうな。哀れ、ケイレヴ…。と記していた“男性不信”が前面に現れてきていることが印象深かった。


 翌日に観た『ディリリとパリの時間旅行』は、十八年前に観たキリクと魔女が素晴らしく、十四年前に観たアズールとアスマールもなかなかのものだっただけに、四年前のこの新作が何ともピンと来ない感じだったことに少々落胆した。ベル・エポック時代のセレブリティたちをてんこ盛りにして見せていた作り手の思いは何だったのだろう。

 なんだか先ごろ観たばかりのペイネ 愛の世界旅行』['74]よりも更にお手軽な感じで並べ立てていたような気がして、しっくりこなかった。原題の「Dilili à Paris」からすると「パリのディリリ」になると思われるタイトルに敢えて「時間旅行」を加えさせたものは、どうも『ペイネ 愛の世界旅行』の存在のような気がした。だが、少々お門違いのように思う。

 それにしても、少女を四つん這いにさせて「四つ足」と呼んで椅子にする趣味を以て男性支配の象徴とする趣味の悪さは、どうだろう。それなら時計じかけのオレンジの裸女テーブルのほうがまだしもだという気がした。『MEN 同じ顔の男たち』や『時計じかけのオレンジ』には強い暴力性が現れていても、そこにミソジニーは感じなかったが、暴力描写では遥かに穏当な『ディリリとパリの時間旅行』には、それが感じられたからかもしれない。
by ヤマ

'22.12.20. TOHOシネマズ6
'22.12.21. 美術館ホール



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