美術館夏の定期上映会 “世界の名作アニメーション”

①『パンダコパンダ』['72] 原案・脚本・画面設定:宮崎駿
演出:高畑勲
作画監督:大塚康生・小田部羊一
②『パンダコパンダ
   雨ふりサーカス』['73]
脚本・美術設定・画面設定:宮崎駿
演出:高畑勲
作画監督:大塚康生・小田部羊一
③『おやすみ、クマちゃん』
 (Mis Uszatek)['75~'77]
監督 ルツィアン・デビンスキ
マリアン・キェルパチャク
ヤドゥガ・クドゥジツカ
ダリウス・ザヴィルスキ
エウゲニウシュ・イグナチュク
④『河童のクゥと夏休み』['07] 監督 原 恵一
⑤『アズールとアスマール』
 (Azur Et Asmar)['06]
監督 ミッシェル・オスロ
⑥『雪の女王 新訳版』
 (The Snow Queen)['57]
監督 レフ・アタマーノフ
⑦『ペルセポリス』
 (Persepolis)['07]
監督 マルジャン・サトラピ
⑧『TOKYO LOOP』['06] 佐藤雅彦+植田美緒
『TOKYOSTRUT』
田名網敬一『トーキョー・トリップ』
清家美佳『釣り草』
大山慶『ゆきちゃん』
しりあがり寿『イヌトホネ』
束芋『公衆便女』
宇田敦子『トウキョウ』
相原信洋『BLACK FISH』
伊藤高志『アンバランス』
しまおまほ『tokyo girl』
和田淳『声が出てきた人』
村田朋泰『ニュアンス』
古川タク『はしもと』
久里洋二『フンコロガシ』
山村浩二『Fig(無花果)』
岩井俊雄『12O'Clock』
 ちょうど公開中の『崖の上のポニョ』は、さっぱり観に行く気にならなくて腰が重いのだが、'70年代はじめの頃の脚本・画面設定:宮崎駿、演出:高畑勲の『パンダコパンダ』は、逆に気になって仕方がなかった。アニメーション作家ながらベネチアで賞を貰うまでの大御所になったジブリの原点を覗いてみたかったからだが、観てみて驚いたのは、基本的に宮崎駿のやってることは、当時とほとんど違ってないというか、同じネタの繰り返しだということがよく判ったことだった。
 “異形のものとの親和性のもたらす活力ないしは再生”“非日常を面白がり楽しむ精神の信奉”“少女礼賛”。パパンダなど、場面によってはトトロと見間違う風情だったし、パンツ丸見えの開脚逆立ちをミミ子の決めポーズにして繰り返しているのも、その後の作品で随所に現れている趣味の率直表現としてちょっと突き抜けたところがあり、少々呆れを催したが、強烈だった。そして、突き抜けているという点では『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』で、大雨による洪水で水没した街を「素敵!」と喜ぶ過激さには、ちょっと感心させられた。
 ジブリのアニメの根幹をそこのところに置いて眺めてみると、ミミ子ばりの馬力と想いの強さで、心寄せる男の子カイを追って旅する少女ゲルダを描いた半世紀前のソ連アニメ『雪の女王』が、単品チラシの表に「ぼくにとっては、運命の映画であり、大好きな映画なんです。 宮崎駿」と大きな文字で書かれていたのも宜成るかなと思えるし、1969年生まれのイラン女性マルジャン・サトラピ監督の自伝的作品『ペルセポリス』が主人公マルジの少女期に特に異彩と魅力の際立つ作品であることが映えてもくる。
 そして、幼少時代をギニアで過ごしたとのミッシェル・オスロ監督のフランスアニメ『アズールとアスマール』と三作品の海外アニメーションを並べてみると、国も時代も変わりながら「男の子を選ぶのは、いずれも女の子である」という共通点があることに気づかされる。そもそも映画というのは、どうもそういうものらしいというのは、かねてより僕の思っているところなのだが、実社会ではそうじゃないと思っている人のほうが多いように感じられるところがまた面白いというか、興味深い。
 それはともかく、ここのところでの“異形のもの”という部分を“異文化”に押し広げると、『アズールとアスマール』や『ペルセポリス』は、まさに宮崎アニメに通底する主題を抱えた作品であることが浮かび上がってくるわけだ。その『アズールとアスマール』では、最後の場面でシャムスサバ姫を呼んだときに、キリクと魔女で使った手をまた繰り返して見る見る大人の姿に変えるのかと危惧したのだが、さすがはミッシェル・オスロで、もっと気の利いた展開を用意していて感心させられた。最初は瞳の色が同じペアで始めたダンスを構えていかにも従来的な予定調和を提示した後に、女性の選択が人種間の融和を方向付ける結末にしていたからだ。

 今回上映されたなかで、僕の目に映った最も魅力的な作品は、『河童のクゥと夏休み』だったのだが、これも言わば“異形のものとの親和性のもたらす活力ないし再生”を扱っていて、主題的にジブリの好むところと重なっていた気がする。だが、近年の宮崎作品に感じられるような説教臭や造形性の圧力のような難点が全くなく、見事な作品だと思った。
 一番大きな違いは、情緒の程のよさとデリカシーだという気がする。それを体現していたのがクゥに宿らせていた精神の行儀の良さであり、康一家族の利得心や功名心のなさに込められていたものだったように思う。そういう点では、クゥが江戸時代以降の世情の変化を知らぬ身として設定されていたことが利いていたし、クゥを追ってケータイ写メに夢中になる群衆や彼らにそういった行動を促すような文化的誘導を果たしているTVを中心としたマスコミメディアの有り様を対置させながらも、説教臭に繋がったりしてこずに素直な反省と共感を誘発してくれるところが大したものだと思った。そこにはクゥの声(冨沢風斗)と言葉に宿っていた味わいが大いに効いていたような気がする。
 その次に面白かったのは『ペルセポリス』だ。王制から共和制に移行しながらも非民主化という点では、より酷くなっていったうえにイラクとの戦争を招いて長らく続けることになった国に生まれた女性の個人史をこうして観ることは、とても刺激的なものだと思った。マルジは、決して一般的なイラン女性の姿ではなかろうが、イスラム圏において三十年前に実際にあった生活であるのは間違いなく、その欧米文化への開放性も含め、自分の思いも寄らなかったイラン事情がたくさん出てきていて、とても興味深かった。
 マルジにとっての祖母の存在の大きさ、クゥにとっての亡き父ちゃんの存在の大きさを思うと、人の生において最も必要なものは、財力や権力、夢や自己実現の目標などではなく、自身にとって大きな存在感を持つ他者の存在なのだと改めて思う。

 プログラム全体を眺め渡してみると、今回のプログラムがこれらの作品に絞り込まれていれば、“世界の名作アニメーション”などという凡庸な企画タイトルではなく、テーマ性とキュレーター色の濃い触発力のあるタイトルを打ち出せたはずなのに、『おやすみ、クマちゃん』と『TOKYO LOOP』が加わっているために、焦点がぼやけ、プログラムコンセプトの見えてこない企画になっているのが残念だった。美術館での企画上映なのだから、そういうところに主張と表現性のあるプログラムを期待しているのだが、せっかくの好材を集めながらも、それを活かせていないように見える。十年以上も企画上映を続けてきているのだから、そのあたりにもう少し自覚的になってもらえると、もう一皮剥けてグレードアップした美術館上映会になると思うのだが、その期待は、なかなか満たされないでいる。それでも、巡回もののパッケージ企画ではないプログラムを試みているところは嬉しいし、楽しみだ。
 そういう点から、僕にとっては、今回のプログラム作品として余計なものだった『おやすみ、クマちゃん』だが、ポーランドアニメという点が珍しくて、それはそれで興味深く観た。ただ、同趣向のシリーズものを10作品も連続されると、短編とはいえ、少々飽いてくる。だが、春夏編の「お洗濯で水びたし」「アヒルの親子とはじめての水泳」で使われていた水の表現は素晴らしくて、大いに目を惹いた。しかし、二日間に渡るプログラムの最後の作品『TOKYO LOOP』を観る頃には、集中力もすっかり壊滅状態で、我ながら老いてきたことをつくづく自覚させられた。




*『パンダコパンダ』
推薦テクスト:「超兄貴ざんすさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=747729681&owner_id=3722815

*『ペルセポリス』
推薦テクスト:「超兄貴ざんすさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=692953807&owner_id=3722815
by ヤマ

'08. 8.16~17. 県立美術館ホール



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