『キリクと魔女』(Kirikou Et La Sorciere)
監督 ミッシェル・オスロ


 含蓄のある台詞に富んだ物語に宿っていた、高い知性に味のある佳作だ。先頃、某所にサイトアップされた『血と骨』の感想これだけ暴力を振るうということは、彼の思い通りにならないことばかりなわけで、そんな彼が幸せだったはずはないですよねえ。と書かれた一節を読んで大いに感心したものだが、乱暴者の金俊平(ビートたけし)であれ、テロの時代と言われる現代を震撼させているテロリストであれ、この作品の主役の一人でもある魔女カラバであれ、その行為自体は否定されるべきものながら、物語のなかで幼いキリクが問い続けたどうしてカラバは、いじわるなの?という視線を抜きには、世界に平和は訪れないし、解決の道はないというのが作り手の思いなのだろう。

 非道な力を行使する“悪”に対して、同じ力の論理で闘い屈服させるのは、正義ではなく更なる巨悪に他ならず、力の論理で対抗するのではなしに「なぜ」を問い、「どうして」を探って解決の道を求めるのは、紛れもなく知の論理と言える。しかし、知を捨てて、力に隷属するか、より上回る力に頼るのが人間の常であるのは、キリクの生まれた村の人々に限った話ではない。むしろ知の放棄こそは、時代の趨勢と言っても過言ではない状況にあるような気がする。

 そのことへの違和感というか人としての気持ちの悪さのようなものが、テロを仕掛ける力も制圧する力も持たない普通の人々の心のなかにあるからこそ、一見したところ、子供向けアニメのように目されがちなこの作品が、映画センターによる巡回上映に留まらない劇場公開と想外のヒットによるロング上映を果たし得たのだろう。

 ちびっこいことで軽く扱われてたキリク少年がそれゆえに果たせたことに対して賢者が小さいことを喜びなさいと言った後そして、大きくなったら、忘れずに大きいことを喜びなさいと語り掛ける台詞にも味わいがあったが、僕が気に入ったのは、魔女カラバの圧倒的な魔力の源泉である苦痛がキリクによって取り除かれ、カラバが魔力を失ってもなお彼女には大きな力が残っていたところだった。そもそもカラバの負った苦痛の源泉に集団レイプのイメージを重ねているところや、キリクが彼女に求める褒美がキリクとの結婚で、断られてもキスをねだって食い下がるばかりか、彼女によって美しく立派な成人にしてもらったキリクに対して、カラバが村にすぐには戻らずに二人だけの時間を楽しむことを求めるくだりなど、男女の機微や人にとって性の持つ意味などをも偲ばせていて、実に味わい深い。また、突如成人したキリクを誰もキリクと識別できないのに、キリクの母親だけは見た目に囚われることなく、手触りで息子であることを確信できる存在として描かれてもいた。

 興味深いのは、事々に訳知り顔で物言っては観客の失笑を買うような発言を繰り返していた村の古老の頑迷な固陋ぶりだった。物事に白紙で臨み、問い掛けを続け、いつも考え行動し続けることでたびたび疲労を口にし、深い眠りに就く幼いキリクとの対置が鮮やかだ。考え行動することを放棄し、経験知や世間知のみで訳知り顔をしているような老人には、疲労もなければ、深い眠りも訪れたりしないというわけだ。村人の誰もが彼の言葉をまともに聞いていなくて、発言しても何の反応も得られていなかったように思う。

 魔女カラバの魔力は、人々が今ある世界の現実を仕方なく揺るぎなきものと思い込み、考え行動することを放棄して、虚妄を信じ込み訳知り顔しているからこそ威力を発揮しているに過ぎないと訴えるこの作品の健全さと力強さは、魔女カラバがいじわるであることの理由を知ろうとするキリクの正しさと相まって、確実に観る側にある種の感銘と感慨を残してくれる。深みと味わいに富み、尚かつ楽しく色鮮やかな作品だった。最新の技術を駆使した驚くばかりの映像ではなくても、豊かなイマジネーションと鮮やかな色使いでかくも美しい作品を創造できるし、大々的な宣伝は仕掛けられなくても、地道に長く人々に観続けられるに足る作品は生まれるものだ。高知では、専ら親子映画会という形で展開されているようだが、まさしくそれに相応しい作品だという気がする。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20040729
by ヤマ

'04.11.28. 自由民権記念館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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