| |||||
『フリーダム・ライターズ』(The Freedom Writers Diary)['07] | |||||
監督・脚本 リチャード・ラグラヴェネーズ | |||||
公開当時のリーフレットに「昨日までの涙がインクになる。」と記された、かつての“フリーダム・ライド”ならぬ“フリ-ダム・ライターズ”を描いた作品だ。 1992年のロス暴動後のロサンゼルス郊外にある元は進学校だった公立高校に、1994年に赴任した新米教師のエリン・ブロコヴィッチならぬエリン・グルーウェル(ヒラリー・スワンク)による、ある種、奇跡の授業とも言える奮闘ぶりが描かれ、いわゆる感動作となっていたが、僕はむしろ彼女の夫で、妻の偉業を認めつつも袂を分かって行かずにいられなかったスコット(パトリック・デンプシー)が抱えたであろう屈託のほうを詳述した作品を観てみたい気がした。弁護士を継がせたいという己が「期待」とは異なる道を歩み始めた愛娘を最後には、実に誇らしく敬愛の籠った眼差しで見つめていた父親(スコット・グレン)との対照が鮮やかだった。夫と父親の立ち位置の違いというものが端的に現れているように感じた。 そして、荒れた高校に通いながら生徒たちが生き延びようとしていた、“戦争”にも擬えられていた差別と敵意に満ちた人種間抗争の凄まじさに、三十年前に観た『ドゥ・ザ・ライト・シング』['89]を思い出して圧倒されるとともに、銃社会の恐ろしさが何とも強烈だった。原作は、エリン・グルーウェル自身の著した「教え子たちに書かせた日記ノート」を世に出した本のようだが、教育というか、知識を得ることで開ける人間の可能性という点で、先ごろ観たばかりの『ザリガニの鳴くところ』にも通じる作品だったように思う。 それと同時に、エリンの実践する熱血授業を冷ややかに見ていた教師たちが「昔の姿にはもう戻せない」とすっかり諦めていた高校の荒廃が、どうやら政治家たちの御都合主義による形ばかりの人種融合策によってもたらされたものであることを偲ばせていたところに感心した。1961年の“フリーダム・ライド”が人種隔離制度への抗議運動だったのとは対照的に、その三十余年後の“フリーダム・ライト”は、教育プログラムなき人種融合制度への抗議運動だったとも言えるように感じた。 そういう意味では、画期的で果敢な教育プログラムを実践していたエリン・グルーウェルが、華々しくメディアで取り上げられつつも、ほんの数年で教育現場を離れてしまっていたことが印象深い。彼女が教育指導者という形で活動していることをクレジットで告げていたラストを観ながら、筒井勝彦監督が取り組んでいる『ニッポンの教育(挑む )』シリーズの菊池省三氏のことを想起した。 | |||||
by ヤマ '22.12. 5. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|