『ドウ・ザ・ライト・シング』(Do The Right Thing)
監督 スパイク・リー


 差別の問題を扱った作品は数多くあるが、その大半が差別のもたらす悲劇を感情に訴えるか、あるいは差別を告発する論理によって状況を分析するかであり、なおかつ作り手の多くがその作品で扱っている差別を受けている側の者ではない。その点でこの作品が人種差別の問題を扱いながら、作り手が黒人であるのは興味深いところである。スパイク・リーは、彼が被差別の側にいるからこそ、差別の問題が感情や論理に働き掛ける良心の問題では済まないことを厳しく認識している。感情に訴えれば、気の毒とか可哀想とかの反応を呼んだり、さらにはその憐憫の情に自己満足を与えるだけのことに終りがちである。論理に訴えれば、その非を認識させつつも責任の所在についての回避ないしは転換を促しかねない。差別問題がこれほど論議されながら、一向になくなる気配を見せないのは、それが感情や論理の問題である以前に感覚の問題、しかも人間が自己を発見する過程のなかで避けることのできない対比志向という感覚の隙間に体制によって注入されたものが問題となるからである。自己認識の第一歩は他の誰でもない自分というものを知ることであり、その認識は他の存在との比較抜きには成立し得ない。比較認識がアイデンティティーを支える認識の基礎であればこそ、そのなかに体制の側からある種の情緒や価値の序列を伴って差別感覚を注入されてしまった以上、部分的に排除することは極めて困難なのである。

 それを知っているからこそ、スパイク・リーは、安易に感情や理性に訴えて差別感覚を糾弾するなどということはせずに、差別感覚の持つ根の深さと状況の危うさとを批判的な人間観ではなくして語ろうとするのである。差別問題を扱った作品で、作り手からであれ、観客からであれ、批判的視線に晒される存在も同情を誘う存在も出てこない作品は初めてなのではなかろうか。言わば、状況のなかに差別の構造を見て取ろうとするのではなく、差別感覚に満ちた状況のもたらす現実を掬い取ろうとしているのである。その結果、この作品で描かれる被差別者の感情は、イタリア人のピザ屋の壁に黒人の写真が貼ってないのが許せないとか騒音としか言えないような音量で鳴らしていたラジカセの音を咎められたのが不愉快だとか、いずれもが描く対象としての感情であって観客に安易な共感を許さない。また、ピザ屋に対し不買運動を起こすことにしても、黒人の多くがそれを支持していなかったにもかかわらず、ふとしたきっかけでピザ屋の打ち壊しに至る暴動と化することにしても、行動は論理性を越えたものとして現われてきている。それでいてそこに安直なリアリティーを越えた真実が感じられるから凄いのである。

 実際、被差別者である黒人達の側にも強烈な差別感覚があるし、頑固で人のいいピザ屋の主人にも明らかに差別感覚がある。そのうえでスラムの黒人が無造作に警官に殺され、しかも警官のなかに黒人もいる。そして、警官に殺された怒りがピザ屋の打ち壊しになる。ピザ屋のおやじには気の毒でも、これが現実なのである。人種どころか個々の人間でさえ差別をする側と差別される側にくっきりと構図的に識別できる現実などない。この実に当り前のことが多くの差別問題を扱った作品では不問にされがちな所にスパイク・リーは異議を申し立てているのである。黒人、ユダヤ人、イタリア系移民、プエルトリカン、アイリッシュ、…アメリカ社会でWASPを頂点とする人種構造のなかで差別されるこれらの人種の人々が、ロンド形式で次々に他の人種を罵る言葉を吐いていくカットの繋ぎにはスパイク・リーの差別問題への認識の厳しさが強烈に現われている。そのうえでなおかつ暴動のきっかけを作った黒人店員に給料の請求をさせるラスト・シーンは、彼の率直な立場表明とも言える。それでいて彼は、この作品に軽快なテンポとギャグをちりばめつつ、その正当だが少し危険な思想を真摯に表現することに成功している。実に端倪すべからざる才能プラス知性と言っていいものがある。そのリー監督が最後にこの作品をかのキング牧師と共にマルコムX氏に捧げているところに私は強い感銘を受けた。
by ヤマ

'90. 6. 1. シャンテ・シネ1



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