『ザリガニの鳴くところ』(Where The Crawdads Sing)
監督 オリヴィア・ニューマン

 湿地帯と沼地は違うというフレーズと共にスクリーンに拡がる壮大な画面を観ながら、四十年ほど前に訪ねたことのある釧路湿原を思い出したりしたのだが、観進めていくと、DVを巡る非常に厳しくもタフな物語で、大いに感銘を受けた。

 何と言ってもデイジー・エドガー=ジョーンズが実にニュアンス豊かに演じていた、カイアと呼ばれるキャサリン・ダニエル・クラークの人物造形が素晴らしく、厳しくも豊かな自然のなかで育まれた野性と図書館を制覇する読書に培われた知性によって形成されたタフな精神力の煌めきに魅せられた。

 クラーク家に残されていた聖書に記された文字からすると、カイアの生まれは1945年のようだったから、夫からのDVに耐えかねて母親が去った1953年はまだ八歳で、程なくして姉も兄も逃げ去り、遂には父親も去って湿原で独り暮らしを始めたのは十歳に満たない頃だと思う。汚い臭いと言われて学校にも一日しか行かないまま、黒人夫婦の営む雑貨屋に朝採りのムール貝を卸して自活しつつ店主のジャンピン(スターリング・メイサー・Jr)の妻メイベル(マイケル・ハイアット)から金銭勘定が出来るよう算数を教わり、幼馴染のテイト(テイラー・ジョン・スミス)からは十七歳にして文字を教わり、読書と知に目覚めるわけだが、独り居残った湿地帯に留まり続けながらも知の力によって目に入る事物の見え方が変化し、世界が拡がるさまが活写されていて、テイトとの関係の掛け替えのなさが沁みてきた。後に、生涯の悔いだと謝罪していた“浜辺で花火を一緒に観る約束”を反故にされて、夕刻から待った水辺で泣き濡れつつ朝まで過ごしていたカイアの一途が痛ましかった。

 テイトへの失望から付き合いを承諾したようにも見えた地元の裕福な名家の息子チェイス(ハリス・ディキンソン)が、結局カイアから父親のような男は最後には自分が殴り出すのと言われるDV男だったことに、DVの心性は貧富といった生活境遇とは異なるところからくることを作り手が訴えているような気がした。それとともに、ろくでなしチェイスが、カイアの前では決してろくでなしではない姿で現れていたことにリアリティがあって印象深い。ただの女漁りのための手管ではない描かれ方がされていて、最後に効いてくる形になっていた。『タイタニック』['97]を想起させるようなペンダントのエピソードが原作小説にも果たしてあったのか、大いに気になっている。

 また、カイアが祖父の手に入れた湿地帯の土地を追われることを危惧して、権利書を手に入れるための800ドルを稼ぐ可能性に賭けて、母親譲りの描画の才と図書館と湿原で得た知識をもとにテイトの残してくれた出版社リストに売り込みをかけて手に入れていた会食の場面も非常に利いていたような気がする。蛍の明滅には二つの意味がある。交尾のためのものと捕食のためのもの。どちらが善と悪というものではない生き延びるための営みだと静かに語っていたカイアの芯の強さが改めて沁みてくるエンディングに強い納得感を覚えた。自分自身に言い聞かせる言葉でもあったわけだ。凄い女性だった。スケール感のある映像も素晴らしく、実に見事な作品だ。このところ、女性監督の撮ったDV男を扱った作品を観る機会が増えたように思うが、それらの作品群のなかでも本作は、出色の出来映えのような気がした。

 映画化作品未見で原作既読という映友女性によれば、原作小説でカイアとテイトが知り合うのは、1962年になってからのことらしく、彼の思慮深さがカイアとの先々に対する困難に怖気づかせ、彼女から離れていくことを選ばせていたようだ。そういう思惑から彼女を棄てたのであろうことは、映画化作品でも描かれていたが、興味深かったのは、家族の皆人が去って行ってもタフに生き延びていたカイアが今なら○○障害になるか、他人を受け容れられない女性になりかねないとさえ思う程のダメージを映友女性が感じ取っていたことで、さればこそチェイスの存在が彼女にとって非常に大きな意味を持っていたことを証してくれたように感じた。

 原作小説では、殺害シーンそのものが詳述されているそうだが、映画では何も触れられずに検察側が示す読み筋として描かれ、それを弁護士が可能性に基づく見込みに過ぎないと主張して勝訴を得たのち、何十年も経ってカイアが亡くなってから明かされ、事件の日の出版社との会食の場での蛍の話が改めて効いてくる形になっていたわけで、ワンカットで「あ、やっぱりそうだったのか」と見せることのできる映画として、実に巧みに構成し直した見事な脚本だったのだなと改めて思った。大したものだ。




推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20221214
by ヤマ

'22.11.23. TOHOシネマズ9



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