『アリスの恋』(Alice Doesn't Live Here Anymore)['74]
『ハリーとトント』(Harry and Tonto)['74]
監督 マーティン・スコセッシ
監督 ポール・マザースキー

 今回の課題作品二本は、ともにエレン・バースティンが出演した同年作だ。両作ともかねてより気になっていた映画で、先に観たのはスコセッシ作品。これが『アリスの恋』か、との思いとともに観たが、カリフォルニア・モンテレーでの真っ赤な少女時代から、いきなりニューメキシコ・ソコーロに跳んで語られる、三十五歳のシングルマザーの物語だとは思わなかった。

 奇しくも旅の重さ['72]を観たばかりで、息子と娘の違いはあれど、シングルマザーの生きづらさを背景にした同時代作品という点から、なかなか興味深く観た。日米違えど両作ともに、女性が男無しでは生きられないという呟きを洩らす時代の映画だ。この台詞には、性的ニュアンス以上に「男無しでは生きられ(る術が持て)ない」という生活上の不安と依存の問題が込められているように感じた。DV夫から離れられないリタ(レーン・ブラッドバリー)といつもおどおどしているウェイトレスのベラ(ヴァレリー・カーティン)の配置が利いていたように思う。

 粗暴と身勝手を“男らしさ”だと勘違いしているのは、アリス自身の言葉にもあったように男の側だけのものではない点を明示しているところが重要で、さればこそ、アリスの言うこれは私の人生よ、男に捧げるものじゃない!との言葉が生きてくる気がした。原題の「Here」の意味するところは、そこにあるのであって、亡夫の生まれ故郷ソコーロのことでも、自分が八歳差の年上になることに引け目を感じていたDV不倫男ベン(ハーヴェイ・カイテル)と出会った町のことでもないのだろう。

 元歌手というプライドを剥ぎ取られ、観念してウェイトレスとして働き始めたダイナーの先輩同僚フロー(ダイアン・ラッド)の人物造形がなかなか好くて、その明け透けに下品な言葉遣いに彼女を毛嫌いしていたアリスとの間で交わされる、友情とは少々異なる、似た境遇の女性同士に生まれた連帯のようなものに、あのこは貴族を巡って談義を交わした「シスターフッド」のことを思った。

 また、本作にタイトルが出てきたラナ・ターナーとジョン・ガーフィールドによる『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のほうは未見なので、矢庭に気になって来た。

 後から観た『ハリーとトント』は、僕にも覚えのある刑事ドラマ「鬼警部アイアンサイド」が放映されていた時代の老人物語だ。立ち退きを迫られても断固として応じず、強制退去の憂き目に遭ってしまうし、愛猫トントを連れての旅行に難儀しながらも断固として拘る、頑固一徹の困ったマイ・ウェイ爺さんハリー・クームズ(アート・カーニー)によるニューヨークからロサンゼルスにまで至るロードムービーを観ながら、確かにマイ・ウェイはマイ・ウェイに他ならないけれども、人との出会い方にしても、出来事への対処力にしても、並々ならぬ柔軟さだと感心した。そして、硬直した頑固一徹とは画然とした、知性とユーモアを湛え、ピアノも弾けるハリーのゴウイング・マイ・ウェイを微笑ましく観た。確かにアート・カーニー、畢生の作だろうと感じる。対話のときも独り言のときも、実に口調がいい。

 行くところがなければ、家に来ないかと誘ってくれていたポーランド系移民のジェイコブ・リヴェトフスキー(ハーバート・バーグホフ)が言った「書を捨て街へ出よ」との言葉どおり、結局は長男のバート(フィル ・ブランズ)一家との同居を止めて旅に出た道中で出会う様々な出来事や人々とのやり取りが面白かった。

 緘黙の行に勤しむ孫のノーマン(ジョシュア・モステル)が壁にDon't Worry Be Happyと貼ってあった部屋を去り、亡妻アニーを偲びつつハリーが旅に出るのは、バートの妻エレイン(ドリー・ジョナー)が負担感を丸出しにしていたこともあろうが、いい街だった。それが壊されていると嘆かずにいられないニューヨークへの失望に加えて、ジェイコブの死が最も大きく作用していた気がする。そうでなければ、娘のシャーリー(エレン・バースティン)を訪ねてシカゴへ赴くよりもバートの家を出て別の部屋を探したに違いない。アルメニア人男性が九十三歳で子供を作ったというニュースは、僕にも聞き覚えのある驚嘆事だったが、その話を嬉し気に語っていたジェイコブの死に涙するハリーの姿が、彼の愛猫トントとの別れの場面以上に沁みてきたのは、僕がペットなるものを苦手にしているからかもしれない。

 トントとのことよりも、しばし道中を共にした十代女性のジンジャー(メラニー・メイロン)に初めて裸を観た女だと話したジェシー・ストーン(ジェラルディン・フィッツジェラルド)を施設に訪ねて交わしたダンス場面や、互いに敬愛しつつも会えば論争ばかりになる娘の元を離れて、コロラドのコミュニティに向かったジンジャーとノーマンに車を与えて別れ、自分はヒッチハイクで次男エディ(ラリー・ハグマン)の住むロスを目指した道中にて、ラスベガスまで乗せてくれた高級娼婦を自認するステファニーに誘われて、100ドルしかないと答えたのに脇道に入って行った、慕情の主題曲♪Love Is A Many Splendored Thing♪の流れる場面のほうが好きだ。

 猫の行商をやっていたなどという「そんな行商があるものか」と思えるような出任せを言っていたハリーが、平然と猫の行商をやっていたなどと言う怪しげな健康食品を売りつける行商人ウェード・カールトン(アーサー・ハニカット)と出会って驚いたり、立小便で留置されたハリーがネイティヴ・アメリカンの2本羽根のサム(チーフ・ダン・ジョージ)から、俺は大のほうだと言われて驚く場面などにも漂うユーモア感覚が心地好かった。

 そして、ハリーの老いて後のペットを連れた冒険旅行を観ながら、幾ばくかの蓄えを遺言書とともに貸金庫に預け、弁護士に手配も済ませている元教師であれば、老後に経済的不安を抱えずに済むことの幸いというものを改めて強く感じた。そのようなことを思ったのは、僕の歳がハリーに迫っているからか、今の御時世のせいかは定かではないが、できれば僕も「Don't Worry Be Happy」で行きたいものだと思う。ラストでハリーをルームシェアに誘う猫好きのユダヤ教徒女性が二人の年金を合わせれば楽に暮らせるわと言うけれども、いまのアメリカでもそういう台詞が成立するとは、とても思えないが、どうなのだろう。

 子連れの旅に難儀するアリスと猫連れの旅に難儀するハリーによる“自由と居場所”を主題にしたロードムービーという共通項を感じていたら、ネットの映友から『ハリーとトント』について、『ウンベルトD』['52](監督 ヴィットリオ・デ・シーカ)を持ち出されて、ロードムービーではないし、犬と猫の違いはあるが、成程と思った。映画日誌にはしていないが、六年前の観賞時のメモに冒頭、「老人にも生きる権利を」とのスローガンのもと、年金支給額の引き上げを求めるデモの場面から始まる作品だが、年金では生活できなくなっている退職公務員の窮状を描いた作品というより、妻に先立たれた孤独な老人ウンベルト(カルロ・バッティスティ)と愛犬フライクの関係が印象深く描かれた作品だったような気がする。と残していたからだ。

 そのメモに…社会性の観点からは、余りよくできた脚本とは言えない気がしたものの、20年来住んだ部屋を出る決意をした後の愛犬との関わりを描いた一連の場面の演出の巧みさと犬の名演には、犬猫映画を好まない僕さえも唸らされた。愛犬フライクから初めて不信感を買ってしまったことへのウンベルトの狼狽ぶりとフライクの気遣いと警戒が絶妙なる筆致で描き出されていて大いに感心した。デフレも怖いけど、やっぱインフレはさらに怖いよなぁと年金生活がそう遠くない日となっている身には何だか不吉な映画だった(笑)。とも記していた同作からすれば、ウンベルトと違ってハリーには、経済的な余裕感があったように思う。安い中古車とはいえ即決で車を買うし、それをコロラドに向かう孫たちにあっさり譲るし、次男の苦境を知って自分用に送金させた1000ドルを提供していた。

 そのようなハリーのみならず、猫好きのユダヤ教徒女性が「二人の年金を合わせれば楽に暮らせるわ」と言えるくらいに、何かにつけ大らかというか、アメリカにゆとりのある時代だったような気がする。戦後十年も経たない時期のイタリアと戦後世界をリードしていたアメリカという時代の差や敗戦国と戦勝国との違いもあるが、『ハリーとトント』には、笑いはあっても寂寥感がまるでなかったように感じるところが一番の違いだとも思った。

 合評会では、メンバーの一人が指摘した『ターミネーター2』['91]で有名だというアスタ・ラ・ビスタをハリーが黒人のリロイ(エイヴォン・ロング)に向けて使っていたとの摘示が興味深かった。ダンスが巧みだったリロイこそは、ロスに腰を落ち着けたハリーのほうから西海岸へ来ないかと誘いをかけた唯一の人物でもあった。製作年次からすると、本作が元になっていたのかもしれない。




『ハリーとトント』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4939514552814755/
by ヤマ

'22. 9. 9. DVD観賞
'22. 9.12. DVD観賞



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