『ウェールズの山』['95]
 (The Englishman Who Went Up A Hill But Came Down A Mountain)
『フル・モンティ』(The Full Monty)['97]
監督・脚本 クリストファー・マンガー
監督 ピーター・カッタネオ

 今回の合評会の課題作は、'90年代イギリスの“虚仮の一念”映画の二作だった。先に観たのは『ウェールズの山』。これほどユルいトンデモ話は、却って実話でないと映画化されてないんじゃなかろうかと思いながら観ていたら、案の定、最後に現地が出てきて、さらには「山」と「丘」の境目である305mを超えて305m40cmだったはずが、303m80cmになっていたということで、1917年から約八十年ぶりに地元の人たちが先人に倣って土運びをしていた。

 もしかすると、手の込んだフェイク・ドラマなのかもしれないけれども、イングランドとアイルランドに挟まれたウェールズならではのアイデンティティに敏感にならざるを得ない人々における“一際強い愛郷心と誇り高さ”を描いて、真実味のある作品だったように思う。僕が住む高知市の筆山は標高120mにも足らないから、英国基準ではまぎれもなく筆丘になるし、実際、地図でも山頂表示はされていないが、それでも筆山を一方的に筆丘にされ、地図から除外するなどと言われると心外だ。

 村人たちがイングランドからウェールズに入ってきて最初に見る山だと、戦乱のなかで村を守ってきた砦たる歴史を踏まえて誇りに思っているフュノン・ガルウをなんとか「山」として認めさせようと団結して取り組む姿が、コミカルに描かれる。その筆さばき自体は余り達者だとは言えないように感じたが、丘に上って山から下りてきたイングランド人との原題の意味はそこにあったかと思える場面があって、けっこう好もしく観た。

 二人のイングランド人測量士の来村がもたらした共同作業によって人々の魂が少し高みに上がった姿というものを、第一次世界大戦の戦場後遺症に苦しむジョニー(イアン・ハート)が再びフュノン・ガルウに挑み土を運ぶ姿に皆人が手を止めて拍手を送る場面に観たように感じたからだ。日曜礼拝に行こうとしない“好色”モーガン(コルム・ミーニイ)とジョーンズ牧師(ケネス・グリフィス)の関係の変化を最初にもたらしたのは、モーガンが測量士レジナルド・アンソン(ヒュー・グラント)から白シャツを借りて正装で教会を訪ねたことからだったように思う。

 モーガンが繰り返していたお前のせいで失敗してもいいのかとの強迫文句は、僕が最も好まない類の言い回しなのだが、“好色”モーガンのキャラクターにはよく合っていたし、いかにも村社会に暮らす人物的特性を端的に示していて、大いに納得感があった。また、その同じ台詞を何度も言わせることで批判的視座を提示していたことや、村人が一致団結していくなかにあって、姑息な土盛りに賛同しない教師の存在も描いたうえで決して異端を批判的には描いていないスタンスに見識を感じた。

 そして、最後に約八十年ぶりの土運びを描くことによって、愛郷心というのは、ただ生まれ育った土地に対するものではなく、そこに暮らした先人の営みに対する敬愛であることを示していたところが気に入った。国家主義の源になったりするものではなく、むしろその反対であるということだ。

 クレジット・トップはコルム・ミーニイではなかったが、主役は間違いなく“好色”モーガンだった。ジョーンズ牧師の今わの際に呼ばれたモーガンが「俺?」と怪訝な顔をして耳を寄せ、牧師の最期の言葉を聞いたときのコルム・ミーニイの表情が抜群だった。彼は、もう好色に現を抜かさなくなり、村のリーダーとして生きる自覚を得るようになったに違いない。


 後から観た『フル・モンティ』は、二十四年前となる '98年に観て以来の再見作だ。僕が子供の大人化と大人の子供化というのが今の時代に顕著な現象で、似たような形で男性の女性化と女性の男性化という現象も顕著に見られると映画日誌に記しているのは、'03年4月に観たわたしのグランパだけれど、それがまさに目立つようになりだした時分の映画作品だと思う。

 作中に出てくる女の遺伝子が男性化しているという台詞にしても、モチーフとなっている“男性ストリップ”にしても、時代を捉え映し出す表現たる映画としての時代性という点から、大いに眼は惹いた覚えのあるヒット作だ。だが、コメディとしては当時から、笑うに笑えなかった記憶が僕にはあり、足を運んだ自主上映会場でも多くの女性客が集まって笑い褒めそやしていたことに対して、なんとも違和感を抱いた覚えがある。思い返しても、男性ストリップ映画としてはマジック・マイク['12]のほうがずっと気持ちよく、愉しめた気がする。

 むかし観たときは、職業紹介所でドナ・サマーの♪ホット・スタッフ♪が流れ出して、列に並んだままついつい身体を動かしてしまう場面に笑った覚えがあるけれども、今回の再見では、その場面すら、そう面白くも感じなかった。それだけ失業とか貧困の問題が深刻になってきているということなのかもしれない。ガズ(ロバート・カーライル)の息子ネイサン(ウィリアム・スネイプ)は相変わらず好かったけれども、作品自体はなんだかあの時分、過剰に持て囃されていた気がしてならなかった。だが、流れた曲は♪ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ♪といい、♪ダンス天国♪といい、♪ホワット・ア・フィーリング♪といい、♪ハッスル♪といい、僕らの時代の曲で、とても懐かしかった。

 初めて観たという映友女性からは「男性のストリップに女性はあんなに熱狂するかなぁ?と疑問。かつては栄えたが凋落して今は楽しみの少ない田舎街だからか」との声も挙がったが、ストリップについては、女性のあけすけに眉を顰めて御開帳を嫌がる男もいれば、大喜びする者もいるように、女性も同じようなものではないのかという気がする。はしたないとかいうことによって文化的・社会的に抑圧されなければ、本作に描かれたシェフィールドのようなものなのだろう。

 そういう意味では、妙なバイアスの掛かっていない田舎町の素朴さが描かれていたようには思う。労働者の町というのは結構、女性たちが強いような気がする。ガズの元妻マンディもデイヴ(マーク・アディ)の妻も働いていて、いわゆる専業主婦ではなかった。鉄鋼職人だったガズたちが失業する前に上司であったジェラルド(トム・ウィルキンソン)の妻は専業主婦だったが、夫の失業を知ったときの怒り方がよくて、それにも感心した。

 とはいえ、やはりコメディ的にはあまり愉しめなかったのは、なんだかアホ過ぎて、盗みや一獲千金よりもすることがあるだろうとの思いが拭いきれなかったからかもしれない。だが、「失職経験のある身からすれば、随所に思い当たる心境が描かれていて、響いてくるものがあった」という意見もあり、そういう感じでの“途方に暮れる日々を重ねる経験”というものを僕はしたことがないことに改めて思い至った。

 確かにロンパーは、職は得ていても、意に沿わぬ失意から排ガス自殺を試みていたし、妻から求められたデイヴが疲れているからと断り暇を持て余すというのもけっこう疲れるんだと付言していたような気力の萎え方というのは、いわゆる“甲斐性無し”を自認せざるを得なくなった境遇には、付き物なのだろう。なにもかもの自信を喪失していた夫デイヴを鼓舞し、ストリップの舞台に乗り込む勇気を与えていたジーンの声掛けには、ガズの息子に負けないものがあったようには思う。




『ウェールズの山』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4372267089539507/
by ヤマ

'22. 2.13. DVD観賞



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