『わたしのグランパ』
監督 東 陽一


 タイトルが『わたしのグランパ』で、主人公珠子(石原さとみ)が亡き祖父の五代謙三(菅原文太)を偲んで、川の流れに足を浸して回想した物語だから、総ての事々が珠子の見聞した範囲での主観世界であることが前提となっている。だから、誘拐されて窮地に陥っていたとき、グランパが来てくれたことで、椅子に縛り付けられ倒されていたのに、ふわっと浮き上がって起きあがるというような不思議なことが起こったと記憶していても、格別おかしなこととは言えず、却ってそんなものなのかもしれないと思う。そのほかは、グランパやスナックのマスター(浅野忠信)など、誰かが教えてくれたことや自分自身が目撃したことしか、映画では描かれない。映画で描かれていないことは、珠子がそうであったように、観る側も解らないままに受け入れるしかないことであって、謙三がどうやって大金を手に入れたのかとか、疋田組の覚醒剤取引の尻尾をどうやって握ったのか、或いは、正月のホテルのパーティがどのようにして開かれたものなのか、といったことが説明されていなくても仕方がない物語だということにはなる。

 だが、珠子にとってはそれが紛れもない現実だったから、不思議な気持ちとともにではあっても、無条件に受け入れられようが、観る側からすると、ちょっと破格の度が過ぎているようには思う。それでも、この作品が馬鹿馬鹿しくなったり、つまらなくなったりしてこないのは、回想にふさわしいだけの寄せる想いというものが確かな形で生まれていったことが窺えるような通い合いが宿っていたからだろう。菅原文太ならではの存在感というものも、限界近くの際どさながら、巧く作用していたように思う。なんのかんの言ってもやはりメチャメチャかっこいいのだ。喧嘩が強いとか、義侠心に富んでいるとか、人に優しいだとか、そういう具体の事々よりも、人間のかっこよさの本質というのは畢竟“胆力”であることを窺わせるに足る人物造形を果たしていた。

 チラシに英語で“My Grandpa taught me a lot about life.”と印字されていたが、子供に人生についてたくさんのことを教えることのできる大人が本当に少なくなっている。大人が大人でいられず、アダルトチルドレンだとかいって自分自身の課題が未決のままで、次代に教えを伝えるようなところまで、とても及んでいない。子供の大人化と大人の子供化というのが今の時代に顕著な現象で、似たような形で男性の女性化と女性の男性化という現象も顕著に見られるように思う。相対的な差異しか、現象的にも見られなくなってきている。そのことの善し悪しは、一概に言えることではないけれども、そういう時代であればこそ、グランパは余計にかっこいいのだし、こういう物語がある種のメルヘンとして気持ちのよさを伝えてもくれるのだろう。

by ヤマ

'03. 4.23. 高知東映



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