『最後の決闘裁判』(The Last Duel)
監督 リドリー・スコット

 いろいろなことを考えさせてくれる触発力に富んでいて、なかなか面白かった。二時間半を超える長尺を飽かせず一気に観させるリドリー・スコットに感心した。さすがの編集だ。三つの章での重複箇所の取り出しと重ね方が実に巧いと思った。

 1386年と言えば、今から635年も前のことだから、日本では室町時代になる。受胎の神秘に対して、女性は性交時の絶頂に達したときに妊娠するのだとか、命を懸けた決闘には、神の裁定が下されるのだとかいった考えが、むかしは多くの人に信じられていたというような話は、嘘か真か判らないものの、なにも本作で初めて接するようなものではなくて、かねてより仄聞しているけれど、現代に暮らす僕からすれば、笑止千万以外の何物でもない。だから、そんなことが本当に信じられていた当時の人の心境など測りようもないが、それからすると、妻への強姦被害を訴え出た騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)にしても、領主ピエール伯爵(ベン・アフレック)に取り入って栄達を得て、嘗ての親友からの嫉妬と憎悪を浴びることになっていた従騎士ジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)にしても、ジャンの妻マルグリット(ジョディ・カマー)にしても、人物造形が現代的に過ぎる気がしなくもなかった。だが、実話を基にとの触れ込みは、当時の再現を図るものではなくて、当時の特異な状況設定を借りて今に生きる人々に“人間なるもの”を問うために使われているのだろうから、史実と違うなどと言い立てるのはお門違いであって、難点として映ってこなければ、むしろフィクショナルな造形として天晴れと言うべきものだと思う。

 その点からすれば、ジャンにとっての真実、ジャックにとっての真実、マルグリットにとっての真実という三つの章において、マルグリットの被った強姦自体がいずれも紛れなく“強姦”として描かれていたのは、いかにも#MeToo運動以後の映画だという気がした。三つの章立ては、各人の心情それぞれを炙り出す形で描かれてはいても、ジャックに強姦されたと告白した妻に対して、守ってやれなかったことを詫びてベッドに誘ったという“ジャンの真実”と、ジャックを最後の男にしてはおけないと臨んできたという“マルグリットの真実”の違いの大きさ以外には、事実関係においては、そう目立って大きな違いがないことのほうが不思議だった。

 誰が嘘を言い、真実を言っているか、というのは、本作のような構成の物語において、ある種のスタンダードとなっているから敢えて避けたというよりも、僕は、#MeToo運動以後のほうを強く感じたわけだが、そういった事情が働かなければ、ジャックにとっての真実においては、往年のレイプ映画として名高いわらの犬['71]でのエイミーのように描かれるべきもののような気がした。人は概ね、嘘を嘘と自覚したうえで強弁を貫くことのできる人物と、それだけのタフさはない故に自分に都合のいいほうに記憶が改変されて、自分の言っていることは嘘ではなく事実だと思い込むことのできる人物とに分かれ、化け物的な前者よりも凡庸な後者のほうが多いような気がしているが、そのうえで、ジャックはどちらになるのかが描かれていると、より一層面白みが増したように思う。

 個人的な印象の限りでしかないけれども、いかにも前者のような人物像が強烈だった元財務省理財局長をSタイプとするなら、後者の代表のように思えるのは、連続在任日数が歴代一位の元首相でAタイプということになるが、第2章では、たびたびジャンを庇っていたジャック・ル・グリなど、とてもSタイプのようには思えず、Aタイプに違いないだろうから、彼にとっての真実を綴る第2章における強姦場面は、「最終的にあれは強姦ではなかった」という真実として描かれるほうが、マルグリットにとっての真実としての第三章が活きてくる気がするし、決闘には神の裁定が下されることが信じられている時代にあっては尚のこと、ジャック自身がそう信じていなければ、あれほど怯みなき激しい決闘をジャンと繰り広げられるはずがなかったように思う。リドリー・スコットとしては、本当はそのように演出したかったに違いない気がした。だが、マット・デイモンとベン・アフレックの共同脚本による“#MeToo運動以後”の台本がそうなっていたのだろう。

 また、マルグリットについては、決闘に神の裁定が下されることを信じていれば、自分の告発に対して、決闘で証を立ててくれる決意をした夫に感謝し、喜ぶことはあっても、夫が決闘に敗れれば、自分は偽証罪で丸裸にされて火炙りの刑に処せられることを知りながら隠していたなどと詰ったりはしないはずで、辻褄が合わない気もした。しかし、決闘に神の裁定が下されるなどとは信じていない覚醒した女性だったとすれば、逆に大いに尤もなことであって、そう言えば、設定的には当時の女性には珍しく読書家で、幾つもの言語を解する才媛という設定でもあったし、加えて自身が受胎も果たして「女性は性交時に達したときに妊娠する」なるものが妄言であることを体感していたはずだから、辻褄は合っていたのだと思い当たった。

 中世に生きる現代的な女性像をジョディ・カマーがよく演じていて、過日観たばかりのフリー・ガイとは全く異なる役柄なのに、大いに惹かれた。そのようなマルグリットが終生、寡婦を通したというのは、ジャンに操を立てたのではなく、ジャンとジャックを観て、男はもう懲り懲りというものだったのかもしれない。
by ヤマ

'21.10.22. TOHOシネマズ3



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