『海と毒薬』['86]
『白い巨塔』['66]
監督 熊井啓
監督 山本薩夫

 先に観た『海と毒薬』は、映友たちとの合評会課題作として『白い巨塔』['66]とのカップリングで指定された作品だ。阿部ミツと佐藤ミツの二人のミツの登場する遠藤周作による原作小説を大学時分に読み、映画化作品を三十四年前に観て以来の再見となる。映画化作品でも原作でも戸田(渡辺謙)が「もう、どうしようも、ない……わ」(新潮文庫 第二章Ⅲ P140)と勝呂(奥田瑛二)に零した台詞の「……」部分をタイトルにしたテレビドラマしかたなかったと言うてはいかんのです(演出 田中正)を二か月前に録画視聴したばかりだったから、こちらのほうを先に観た。NHKドラマのほうがドキュメンタルと言うか、ジャーナリスティックで、『海と毒薬』のほうが内省的だった気がする。

 所感自体は、三十四年前の二十九歳の頃とほとんど変わりがないことに感慨深いものがあると同時に、いつの頃からなのだろう、そうは言いながらも、意味より結果のほうが幅を利かせ始めたのは…。そして、その傾向は、ますます助長されてきている。それとともに、世の中が、どんどん非人間的な社会になってきている。効率性や数字が今ほど力を持った時代は、かつて存在しなかったのではないだろうか。と結んであった部分が更に亢進されていることに無念を覚えないではいられなかった。

 また、過日、半世紀ぶりの再見をしたソルジャー・ブルー['70]で、騎兵隊による先住民虐殺の場面が思いのほか短時間だったことに驚いたように、もっと延々と米兵捕虜の生体解剖事件にまつわる場面が繰り広げられていたような印象からすると、記憶にあったもの以上に『白い巨塔』ばりの教授達によるポスト争いを描いていたことに驚いた。もしかすると、上田看護婦(根岸季衣)と浅井助手(西田健)の部分は原作にはなかったのではないかと書棚の文庫本に当たると、しっかり記されていた。戸田の言った(医者にとって)憐憫は害だという台詞にしても、台詞での記載ではなく戸田はきっと…そんな憐憫は今の世の中にとっても医者にとっても何の役にたたぬどころか、害のあるものだと言うだろう。第二章Ⅰ P31)との記述があり、橋本第一外科部長夫人ヒルダ(ワタナベ・マリア)の死ぬことがきまっても、殺す権利はだれもありませんよ。神様がこわくないのですか。あなたは神様の罰を信じないのですか第二章Ⅰ P100)という台詞にしても、戸田の罪悪感の乏しさだけではない。ぼくはもっと別なことにも無感覚なようだ。今となっては、これを打ち明ける必要もあるだろう。はっきり言えば、ぼくは他人の苦痛やその死にたいしても平気なのだ。第二章Ⅱ P124)という述懐にしても、かなり細部にわたって原作に忠実な映画化である一方、米軍調査官(岡田眞澄)による尋問は設えられていなかった。

 今回の再見で目を惹いたのは、生体解剖実験で片肺を切除したうえに、いったん心臓を停止させてから心臓マッサージで蘇生させる実験を重ねていた場面で、うまく蘇生したことに対して橋本教授(田村高廣)が人体の生命力の強さに素朴な感銘を受けている面持ちを見せていたことだった。どうして敢えてそうした負荷を掛けておいてから更にもう片方の肺の上部切除の実験に移行するのか解せない一方で、本作の主題と密接に関わる“人の生きる力”というものについて観る側の意識を新たにさせるうえでは効果的なショットにもなっていて気に掛ったのだが、果たして原作小説には出てこないエピソードだった。映像で提示できるからこそ効果を挙げそうな部分だっただけに納得感もひとしおだった。

 映友からタイトルの「海」と「毒薬」の意味は何だろうと提起されて返したのは、海はやはり“生命の起源”というか源で、毒薬というのは“「しかたなかった」と言わせてしまう口実”のようなものを指しているのではないだろうかということだった。僕自身を含めて人は毒薬を口にし、毒に染まってしまいがちだからこそ、更に亢進されていることに無念を覚えないではいられなかったと上述したような思いに囚われる現実になってしまうのだろう。


 翌々日に観た『白い巨塔』は、四年前にあたご劇場でスクリーン観賞して以来の再見となるが、非常にキャラが立ち、演技陣が充実していて観応えのある、半世紀以上前の名品だと思った。近頃やたらと流行りの「事実に基づく」との触れ込み映画と真逆の架空を強調したオープニング・クレジットに快哉を挙げるとともに、時の流れを感じた。

 序盤の東第一外科教授(東野英治郎)による大名行列のような教授回診に呼応する財前第一外科教授(田宮二郎)による教授回診で終える人事抗争劇を観ながら、二十年後に撮られた四十余年前の戦時中の大学病院を舞台にした『海と毒薬』でも、本作で里見第一内科助教授だった田村高廣の演じる橋本第一外科教授による大名行列で始まっていたことを想起した。僕の弟は外科ではなくて内科の大学教授をしているが、今でも大名行列のような教授回診というものが慣例として続いているのだろうか。

 その『海と毒薬』で最も野心的でギラギラしていて教授を見下していたのが第一外科の柴田助教授(成田三樹夫)だったことを思うと、その符合が妙に興味深く感じられるとともに、地元医師会や学会、前々政権時に政治問題化した学術会議や厚生省の利権審議会とも言うべきものまで巻き込んだポスト争いの醜聞の有体に、気の知れない思いが湧いて仕方がなかった。

 それにしても、繁盛していた財前産婦人科を経営する地元医師会副会長(石山健二郎)による女の患者の“どぶさらい”してせっせとカネを溜めた甲斐がありましたわという台詞は、山崎豊子による原作小説にもあったのだろうか。女性作家の編み出した台詞だとすれば、尚のことながら、なかなか凄いものだと感心させられた。

 また、特典映像の予告編を観たら、「誤診という名の殺人」という劇中には登場しなかった、いかにも煽情メディア好みのフレーズが出て来て苦々しく感じた。ロジック的には、誤診と言うからには殺意はないわけで、殺意がなければ殺人と言うのは適切ではないのだけれども、得てしてこうした言質に彩られるのが煽情メディアの常であって、それは半世紀以上前の作品でも同じということだ。

 映友からは「ラストは「新教授による大名行列」で終わったという記憶だったのに、去っていく助教授の姿で終わっていて驚いた。やはり最後は教授総回診で締めるほうが映画的には決まるように思うけどな」という意見があった。確かに型としてはそういう面があるかもしれないが、今とは違って、理念的真っ当さが現実論より優位にまだ置かれていた時代だから、勝てば官軍のような形で締め括るのは、やはり不適切だという感覚が働いていたのだろうという気が僕はする。白い巨塔という伏魔殿と訣別する里見助教授で終えないと筋が立たないということだ。

 今や理想論などと言う場合、現実離れした空論であるかのように扱われるが、僕が若かった時分には、理想という言葉には美しい響きとニュアンスが込められていたものだった。現実論などというものは逆にいささか志を欠いた卑しいものの考え方だという風潮があったような覚えがある。いつの頃にそれが逆転したのか定かではないが、同時代を生きてきた僕自身の時代認識からすると、どうもバブル期に転換したような気がしてならない。日本には嘗て「貧すれば鈍する」という慣用句があったけれども、実感的には「満すれば鈍する」バブル時代だったような気がしている。




*『海と毒薬』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4104453519654200/

*『白い巨塔』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/4104534179646134/
by ヤマ

'21.11.28. DVD観賞
'21.11.30. DVD観賞



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