『かくも長き不在』(Une aussi longue absence)['60]
『シェルブールの雨傘』(Les Parapluies de Cherbourg)['64]
監督 アンリ・コルピ
監督・脚本 ジャック・ドゥミ

 高校時分の映画部の部長主宰の合評会の課題作としてセレクトされた二作だ。『かくも長き不在』は、初見で、積年の宿題映画をようやく片付けることができた。シェルブールの雨傘』のほうは、昨年観たばかりなので、カップリングをどう観るかとの観点から再見したものだ。

 ハーモニカの物悲しい響きで始まり終えたモノクロの『かくも長き不在』に対し、石畳に落ちる雨のなか一つの赤い傘が現れたあと色とりどりの傘が舞って始まり、雪のガソリンスタンドで終えた『シェルブールの雨傘』だったが、二作品を繋ぐキーワードは、選者の映画部長が言った「復員を待っていた女のフランス映画」の言葉どおり、不在と戦争だったように思う。

 “不在”は前者の作品タイトルにあり、後者では、第2部の部題になっている。前者の十六年に比して後者の二年は短いように思われるが、不在の間の女性側の変化は、後者のほうが大きかった。“戦争”は、具体的には、アルジェリア戦争が両作品に通じていたように思う。加えて気づいたのがオペラで、前者の「セビリアの理髪師」に対し、後者では確かに「カルメン」の名も出てきたが、腐れ縁的な運命の恋というよりは、オープニングの歌のほうに意趣があるような気がした。

 先に観た前者では、これがかの『かくも長き不在』のアリダ・ヴァリかと、彼女の演じるカフェの女主人テレーズのでかい腰のがっしりした揺るぎなさ同様に、己が直感を信じて、ふと現れた屑拾いの記憶喪失のホームレス男( ジョルジュ・ウィルソン)に、十六年も戻らぬままの夫であることを思い出させようとしている姿を眺めつつ、もどかしい展開に少々倦んでいたら、驚くべき最後の十五分間が訪れた。座卓に腕をついて、前に凭れ気味に観ていたのだが、思わず背筋を伸ばして座り直した。

 チャプタータイトルに「三つの小さな音符」と記されていた章だったように思うが、ロベール・ランデの名を持つ男が歌の出だしだけ覚えていて口ずさむオペラ「セビリアの理髪師」の一節に、歌好きだったと思しき夫アルベールの面影を観て取って、店のジュークボックスにオペラ曲を幾つも入れて聞かせ、好物だったブルーチーズを振舞って、記憶を蘇らせようとし、仄かな手応えは得つつも確証を得られないでいたままに「お礼を言うわ」と言いながら踊っていたダンスが、やけに哀しくて感じ入っていた場面からだ。

 目にするものや話だけでは思い出せないでいる男の右脳(聴覚、味覚)に働き掛けても届かず、取っておきの“触覚”を踊りという形で提示しても叶わずにいるなか、男の頭にふと手を伸ばした先に無惨な手術跡を探り当て、記憶喪失ではなく記憶強奪だったことにテレーズが愕然とした後、ダンスを続ける男の腕のなかで、絶望感に見舞われている姿に痺れた。これが、かの『かくも長き不在』のアリダ・ヴァリなのだと得心した。

 人のアイデンティティを形成するものは、他者からの評価や認知ではなく、自身の内にある記憶だと思っている節のある僕などからすれば、記憶強奪をして自身が何者であるのかも判らぬようにした後、屑拾いの浮浪者として生きながらえさせるというのは、死にも勝る仕打ちだと思うけれども、そういう形で夫を奪われた妻の想いというのは想像したこともなかった。だから、テレーズの打ちひしがれようが余りに痛々しくて慄然とした。

 戦争が残す傷跡の残酷さを描いた映画には、いろいろなものがあるけれど、ゲシュタポによる脳手術というのは、今まで観たことがなかったように思う。テレーズの申し出た食事の提供に応じながらも、壁に閉ざされた狭い部屋に入ることに怯えていた男のショットが効いていた。

 本作が撮られた'60年は、アルジェリア戦争がまだ終わっていない時期だから、序盤で老人の呟いていた「平和の名の元に20年も戦争をやっている」という台詞が、さぞかし痛烈に響いてきたことだろう。折しも先ごろバイデン米大統領が20年戦争を終えてアフガン撤退を敢行したと演説していたことを想起した。20世紀も21世紀も軍事国家のやっていることに変わりはないと改めて思う。

 テレーズの店の名前「cafe de la vieille eglise」が繰り返し映し出されていたので、どういう意味か気になって翻訳ソフトで確認したら、「旧教会のカフェ」ということだ。いかにも教会風の建物が映し出されながらも、尖った三角屋根の先に十字架がないのを訝しんでいたところだったので、旧教会ということかと得心した。十字架も外された“神なき世”ということなのだろう。

 頭の手術跡は記憶強奪の証にはなっても、アルベールであることの証にはならない。もどかしく思っていたその部分に対しては、テレーズとホームレス男の成り行きを見守っていた町の所縁の人々が「とまれ!アルベール・ラングロワ」と叫んだことに反応して、彼がもろ手を挙げて立ち止まったことで回答が示されたように感じている。名前を呼ばれるだけでは、何度呼ばれても反応しなかったのに、「とまれ!アルベール・ラングロワ」で、後ろ向きのまま両手を挙げて止まるショットの鮮やかさが印象深い。

 交通事故で死んではいないとピエールがテレーズに告げた言葉は、彼がテレーズに想いを寄せていただけに信憑性があるように思う。そのことからすれば、アルベールが町から姿を消したのは、ゲシュタポの恐怖を思い出したからなのだろう。そのときに併せてテレーズのことも思い出してはおらず、恐怖の部分だけ思い出したように感じられたのが、何とも哀しい映画だった。

 テレーズは、季節が変わって、また帰ってきてくれることを願っていたが、もう叶わないのではないかという気がしてならなかった。アルベールは記憶のみならず、ようやく得られた行き場としてのテレーズの店までも奪われて、またしても過酷な浮浪生活を余儀なくされるのだから、ほんとうに酷な話だ。やはり軍事は、何の名の元に行おうが、金輪際いけないことだと改めて思った。



*『かくも長き不在
推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20040617
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/2916952731737624/
by ヤマ

'21. 9.10. DVD観賞



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