『街の上で』
監督 今泉力哉

 一年前に愛がなんだを観て、アラサーシングルの“なにやら自身の内でもめんどくさそうな恋愛心情”がとてもデリカシーに富んだリアルな真情として汲み取り増幅されている気がして、いたく感心した今泉作品が、午前の1回上映ながら行われていて取り急ぎ観に行った。アラサーほどのめんどくささにはまだ至っていない、学生から二十代半ばの“めんどくさそうな恋愛心情”が軽妙さとあり得なさのなかにある実感溢れる味わいで掬い取られていて、随所で噴き出しながら終始にやにやしながら観た。

 ちょうど『愛がなんだ』の中原の作家名と同じ名前となる古着屋の店員二十七歳の荒川青(若葉竜也)が主人公だったけれども、…ナカハラっちが中原青の名前で開いた個展の写真のなかに、テルコからの夜中の電話で葉子と寝ていたベッドを追われた夜に撮った“窓辺に佇む葉子の写真”がないのは嘘だと思っていたら、…最後にきちんと出てきて、思わずニンマリしたと拙日誌に記したような予期は流石に抱きようがないと思われる代物が最後に登場して、またもやニンマリせずにいられなかったが、二人の見せていた笑顔によるエンディングは、『愛がなんだ』と違って、苦味よりも甘さの勝ったチョコレートのような味わいだった。アイネクライネナハトムジークを観たときは、原作者の伊坂幸太郎との相性の良さに言及した日誌を引用したが、本作を観て、改めて今泉演出との相性の良さを感じた。

 コントのような話の連続ながら、コントを観るように笑うのとは違う可笑しみを“軽妙さとあり得なさのなかにある実感溢れる味わい”で愉しませてくれる台詞と運びのリズムが心地好く、いくつもの対照を醸し出す伏線の効いた台本と演出の練り上げに感心した。一度出てきた印象的なものは、ほぼ必ずと言っていいほど何らかの変奏バージョンで再度現れていた気がする。

 また、いかにも気儘な放埓を体現しているように見られがちな若者らしい振る舞いの心底に「生きることへの生真面目さ」がしっかりと息づいていたような気がして、大いに好感を覚えた。浮気相手のほうに走りながら元鞘に戻ることにした雪(穂志もえか)にしても、不倫の恋しかしたことがないという古書店の店員田辺さん(古川琴音)にしても、寂しさを紛らわせたくて付き合った男に引導を渡すために青なら大丈夫そうと見込んだら知り合った日の夜に自宅に招き入れる女子学生の城定イハ(中田青渚)にしても、大学での映画製作を通じて同じ相手と付き合ったり別れたりを繰り返しているという高橋監督(萩原みのり)にしても、自身のうちの嘘と正直に対して真摯に向き合っている感じが伝わってきて、そのデリカシーに富んだ造形が『愛がなんだ』に通じていたように思う。

 その『愛がなんだ』でのキーワードは“生の寂しさ”だったように思うけれども、本作では“残る”“センシティヴ”“証拠”だったような気がする。オープニングに使われていた製作場面の示している映画作品であれ、青が古書店で買った本に挟まれていたメモであれ、別れた恋人に対する想いであれ、青の部屋の冷蔵庫に収められていたものであれ、人の生の証についての映画だったような気がする。音楽をやっていたという青が箱から探し出していたカセットを観て、2014年でもデモテープはカセットテープなのかなと疑念が湧いたが、職務質問で留められた警察官から個人的な話をされて拒めず困惑してしまうことや、若者がヴィム・ヴェンダースの『アメリカの友人』を『アメリカの友だち』とタイトルを間違えて絶賛しつつ通ぶっているのを小耳に挟むとかいうのは、作り手の実体験に違いないという気がした。そういう所謂“あるあるネタ”を随所に散りばめつつ、映画の序盤で古着屋の客として来たカップルの間で交わされていた“あり得なさそうな言葉”を憧れの人気俳優間宮(成田凌)と別れることにしたという雪に対して思わず言ってしまう青として対置するといった“あり得なさのなかにある実感溢れる味わい”をまた随所で感じさせてくれる、実に愉しい映画だった。

 そして、男女が別れる理由にしても、出演依頼した素人の撮影場面を使わない理由にしても、最も単刀直入で説得力のある理由を正直に相手に言うことがなぜ人は苦手なのだろうと、雪が間宮に言った「好きだけど、ちっとも楽しくないの、だから」や、イハが青に言った「それは、下手くそだからよ」を聴きながら、思ったりした。人間というのは、まことに面白くオカシな存在だと思うとともに、下北沢という街に住んでみたくなるような映画だった。
by ヤマ

'21. 5. 9. TOHOシネマズ4



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