『黄金』(The Treasure Of The Sierra Madre)['48]
『群盗荒野を裂く』(Quién sabe?)['66]
監督・脚本 ジョン・ヒューストン
監督 ダミアーノ・ダミアーニ

 このところこまめに観賞している西部劇のつもりで録画した作品が続けざまに二十世紀初めのメキシコを舞台にしながら、メキシコ映画ではない外国作品だった。

 先に観た『黄金』は、西部開拓時代のゴールドラッシュを描いた西部劇かと思いきや、新世紀になってからの1925年を舞台に、金鉱探しに憑りつかれた男たちを描いたアメリカ映画だった。ハンフリー・ボガートが主演として、ひときわ大きな文字でクレジットされて始まったオープニングからして「(貴男と)同じアメリカ人(の俺)に飯代を」と白いスーツを着た“同じアメリカ人”に三度も続けて物乞いをして、流石に呆れられ、「渡してくれるカネと手しか見てなかった」と言い訳をしていたドブズ(ハンフリー・ボガード)のみすぼらしい姿にすっかり驚いた。しかも、どんどん浅ましい匹夫ぶりを曝け出してき始め、これは、どうなっていくのだろうと思っていたら、坑道が崩れたときに命を救ってくれたカーティン(ティム・ホルト)を、自分が黄金を独り占めしたいがために葬り去ろうとした挙句、最低の最期を迎えるという仰天の役柄であったことに感心した。

 しかも、積極的にお宝の独占を企図する悪漢ぶりでもなく、自分の金が奪われるのではないかとの疑心暗鬼と怯えから来る過剰防衛という、動機的にも最も情けない恰好の悪さに加えて、カーティンを仕留める度胸もなく、罪悪感を呼び起こす良心が邪魔だとの泣き言を洩らしつつ脅える小心者だった。

 昨今の我が国の高級官僚たちの何とも目に余る振る舞いによって強く印象づけられた感のある“悪意よりもタチの悪い小心による悪行”というものについて、本作のドブズにおいてはきちんと相応の報いが訪れ、生と人に対するある種の達観を年の功によって得ていた老ハワード(ウォルター・ヒューストン)や、モラルと自律心を備えていたカーティンには、お宝の金を失っても相応の行き場所が構えられている“神の計らい”というものがあって、'40年代作品らしい収まりの良さを感じさせてくれたように思う。それぞれキャラクターの立った人物造形を達者に果たしていた三人の役者は、いずれも好演だったが、なかでもウォルター・ヒューストンが出色だったような気がする。


 翌日に観た『群盗荒野を裂く』もなかなか面白かった。『黄金』は1925年とのことだったが、こちらは、1910年代の内戦期を舞台にしたイタリア映画だ。生き残った群盗団の首領エル・チュンチョ(ジャン・マリア・ボロンテ)が最後に「お前を殺さにゃいかん、なんでかわからんが」と言った台詞が、その前段のホテルでの「確かにそうだ」「確かにそうだ」と呼応していて実によく、「その金でパンを買うんじゃないぞ、ダイナマイトを買え!」との叫びが決まっていた。マラリアに罹って瀕死の状態を救った自分に対しては相応の律儀を果たしながらも、駅ではメキシコ人を押しのけて切符を買っていたテイト(ルー・カステル)の姿に、なにかの啓示もしくは覚醒を得たように映った。そして、相通じながらも決して交わることができずに捻じれてしまう二人の間の友情に、アメリカとメキシコの関係の間にある屈託が投影されているように感じた。

 原題が気になって調べてみるとスペイン語で「(そんなこと)知るか!」ということらしく、駅での暗殺の件のみならず、チュンチョが異父弟のサント(クラウス・キンスキー)を裏切ってまで、ビル・テイトを取ってしまったことも含めて、文字の読みも書きもできないと公言していた山賊ボスのチュンチョがいかにも言いそうな台詞で、且つ意味深長なタイトルだと思った。理屈じゃないということなのだろう。チュンチョとテイトの人物造形と関係性が実に面白かった。

 されば、オープニングの歌にも登場していたメキシコ美女アデリータ(マルティーヌ・ベズウィック)の存在は、何を象徴していたのだろう。当時のメキシコ事情に明るければ、何か思い当たることがありそうに感じながらも、僕にはそれだけの教養もなく、さっぱり思い当たらなかった。ただ自ら銃も取り、荒くれ男たちに対しても敢然と主体的に臨む実に気丈な女性だった。
by ヤマ

'21. 5. 7. BSプレミアム録画
'21. 5. 8. BSプレミアム録画



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