『愛がなんだ』
監督 今泉力哉

 二十四歳のときには既に長男が生まれていた僕は、当事者意識ではもう若いとは言えなくなっていると思われるアラサーシングルの“なにやら自身の内でもめんどくさそうな恋愛心情”に関する実感がないけれども、とてもデリカシーに富んだリアルな真情を汲み取り増幅している気がして、感心した。

 確か大学の十年くらい後輩だったように思う角田光代が本作の原作小説をいつ書いたのだろうと映画を観終えた後、映画館のショーウィンドウに掲示してあったプレス資料を覗くと2003年だった。それなら、三十路半ばの頃だから、程よく対象化しつつリアルに振り返られる時期で、大いに納得した。

 同世代と思しき山田テルコ(岸井ゆきの)、田中守(成田凌)、坂本葉子(深川麻衣)、中原清(若葉竜也)の四人が四人とも、自身の選択について、相手に責を求めない生き方をしていて損得勘定のないところが爽やかで、好感を覚えた。

 高熱が出て弱ったときに出した助け舟に応えてくれたことは嬉しくても、風呂場の掃除まで始められると「そういうとこが苦手」だと守が思うのは尤もだ。テルコがマモちゃんに言い出せずに葉子を頼ることになった彼の熱発の夜のことにしても、タクシー代さえ残っていないと守が知れば、カネを持たせたはずだ。そうではないのに、カネまで握らせて追い出しては絶縁宣告になるから、優しいマモちゃんにそんなことができるはずない。

 二人が最初にセックスをしたのがいつだったかは明示されてはいなかったが、マモちゃんから頻繁に連絡があるようになったのは、その助け舟に応えてくれたお礼に居酒屋で奢ってもらって朝まで呑んで一緒にタクシーで帰って寝た日からだったように思う。呑むとしつこくなるタイプというのは守も既に知っていたようだから、その朝が最初とは限らないが、肉体的に濃密な関係を持っていても、メンタル的には深く交わった覚えがなければ、もう十代ではないのだから、恋人として付き合っている気にはなれないのは、出版社などに勤めているマモちゃんなれば、さもあらんという気がする。

 ましてやあまり先回りして外堀を埋められるようにして拘束される感じを抱かされることほど、この年頃の青年にとっての居心地の悪さはないだろうと僕でも思う。しかも、自分の情けなさとか罪悪感をも呼び起こされる部分があり、外聞的には分の悪い側に置かれる位置関係だから、なおさら始末が悪い。だけれども、敢えて遠ざけるほどの嫌悪感ではないから、テルコの言葉で言うところの「好きかどうでもいいか」というのがマイルド世代の対人関係の基本線だとすれば、付き合ってもいないのに別れを言い出すことにはならないわけで、葉子からの電話によって指摘された状況に狼狽えつつ「別れ」を切り出しに来た守がテルコの返答に対して猛烈に恥ずかしがる感覚というのもよく分かる。おそらく守は本気で、テルコはテルコの優しさと善良さから、程よい近さで互いの気安さを軽やかに愉しんでいるのであって、自分如きにマジになっているはずがないと、己が自惚れを戒めることを繰り返していたのだろう。テルコに物足りなさを感じている守が求めているのは、すみれ(江口のりこ)が与えていたであろう知的刺激や触発なのだろうが、テルコとの関係の裏腹のように、すみれからは“いい子だけど物足りない坊や”扱いをされているわけだ。その相対性をとても巧みな人物配置による構成で描き出していることに感心した。

 そして、男の鈍さや情けなさは窺わせても、狡さを感じさせなかった成田凌の演技が特に目を惹いた。すみれとテルコと三人で呑んだ夜、すみれに置いてきぼりを食らった失意と寂しさからテルコに凭れかかり「やらせてくれ」と甘えて応えてくれた身体を開きながら、後ろめたさとみっともなさで不能に陥った惨めさを慰められる失態を晒していたり、身体の関係と言ってもセックスどころか、一緒に入浴して髪を洗い合うまでのことを交していながら、総体的には上述したような関係だと思っているであろうことに違和感を抱かせなかったのは、驚異的であるように感じた。原作小説にもこのテイストはあったのだろうか。

 テルコはテルコで、守には綺麗な手のほか然したる取り柄もないと自分でも思いつつ、彼に対する理由なき執着について、思い悩むことも打算も遠ざけて、自身のなかに湧いて出る恋心をひたすら愉しむことに夢中だったようだ。献身が大きければ大きい程に快楽も増すというサイクルのなかに嵌まり込んでいる姿は、愚かでもあり羨ましくもあるのは、退社の日に公園で食事を共にする同僚の台詞にあるとおりのものだろうと僕も思う。

 そういった応分感が、すみれを含めた五人の男女の全ての関係にあったように思う。ひどく安定感を欠いた脆くも確かな男女のデリケートな関係を巧みに描出していて厭味がなく、本当に感心した。なかなかこうは描けないと思う。守がふと零した象の飼育係にはなれても守にはなれない恋の定めを身に沁みて知る人生のひとときをテルコは生きることができたわけで、それからすれば「愛がなんだ」ということなのだろう。愛人として身をやつして生きてきたと娘が言う葉子の母(筒井真理子)にしても、テルコに先輩として浴場清掃を指導していた多子シングルマザー(片岡礼子)にしても、きっと女は、愛だけで生きてきているわけではないのだ。

 守の「山田さんのそういうとこが苦手」と同様に、繰り返されていた清の台詞「幸せになりたいっすよねー」も本作のキーワードで、大事な相手だから尊重したいし、自分のことも大事にしたいとなったときに、どういうバランスが「幸せ」をもたらしてくれるのかということについて、最も真摯に考えていたのがナカハラっちだったように思う。

 テルコへの守の振舞いに憤りながら、守以上の身勝手を清に押しつけていた葉子にも「しようがないなぁ」と思わせながら厭味がなかったのは、守にはない痛々しいまでの背伸び感が透けて見えていたからだと思われるが、妙にこだわりや囚われに縛られた如何にも不器用で窮屈そうなアラサー四人の恋愛劇を観ながら、なぜかちっとも幼稚だとは映ってこないところに痺れた。おそらくキーワードの“寂しさ”がきちんと掬い取られていたからだろう。

 だから、意を決して葉子から離れたナカハラっちが中原青の名前で開いた個展の写真のなかに、テルコからの夜中の電話で葉子と寝ていたベッドを追われた夜に撮った“窓辺に佇む葉子の写真”がないのは嘘だと思っていたら、もったいぶった揚句に最後にきちんと出てきて、思わずニンマリした。いい映画だ。




参照テクスト:今泉監督のリツイート

推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971812392&owner_id=1095496
by ヤマ

'19. 7.15. あたご劇場



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