『クォ・ヴァディス』(Quo Vadis)['51]
『天地創造』(The Bible: In The Beginning...)['66]
監督 マーヴィン・ルロイ
監督 ジョン・ヒューストン

 序曲から始まり、終曲までも付いている三時間に及ぶ堂々たる大作『クォ・ヴァディス』を観ながら、この時分の大作というのは美術も役者も充実していて、実に格調があると改めて思った。力とヒエラルキーの信奉者で、自身を軍神マルスに擬える自信家だったマルクス・ウィニキウス司令官(ロバート・テイラー)が、ローマ帝国に征服されて人質となった小国の王女リギア(デボラ・カー)に恋して、キリスト者への道に導かれていく物語だったが、「(主よ、)いずこへ」と訳されていた「クォ・ヴァディス」が、漁師ペトロにイエスの指し示した道を意味するだけでなく、人の生の進み導かれる方向を複合的に暗示しているようで、なかなか含蓄があったように思う。

 とりわけ、権力者の慢心・増長というものは、こういうふうにして導かれるのだなと得心できるような暴君ネロ皇帝(ピーター・ユスティノフ)の人物造形が秀逸だった。ネロや側近たちが己が保身のために、ネロの指図したローマの大火の引責をキリスト者に押し付けて、彼らを処刑することで被災した人心の憂さの矛先をかわそうとする顚末が、なにやら今どきの国際政治や排外主義の煽りにも似ていて「民衆は信じる、面白ければ、どんな嘘も」との台詞が実に痛烈だった。

 ローマ皇帝によるキリスト者迫害というのは、皇帝か神かの権威の問題だと世界史で習った覚えがあるけれども、分断によるスケープゴートとして利用されたと観るほうが実際に即している気がする。ベン・ハー['59]に出て来たような戦車競技場で、キリスト者たちをライオンに襲わせたり、暴れ牛の的に仕立てた見世物にするといった暴虐を尽くすのだが、リギアの従者ウルススという大男が牛殺しをやってのけて人心の風向きが変わるという政治的見せ場に、妙に説得力があったように思う。

 現代の選挙においてもそうであるように、人心の風向きが理性によって動くことは、古今東西、まず「無い」と言ってもいいような気がする。利己的な傍観者を自認していた側近ペトロニウス(レオ・ゲン)の人物造形がなかなか興味深かった。彼を慕って共に自害したエウニケを演じていた女優は誰だったのだろう。デボラ・カーに引けを取らない魅力を放っていた気がする。


 翌々日に観た『天地創造』も三時間に及ぶ大作で、『ベン・ハー』も、聖衣も、『クォ・ヴァディス』も観たことだし、と思って観ることにしたものだ。記録にも記憶にもスクリーン観賞の覚えがないものの、遠い昔に観覚えのある映画だった。TV視聴しているのだと思う。「旧約聖書の神なんざろくなもんじゃないなぁ」とかつて思ったことを思い出した。

 恣意的な横暴さが創造主ゆえに許されているみたいな尊大さが気に食わなかった。なにやら先ごろ再見したばかりの武士道残酷物語の領主みたいなものだ。禁断の実を食ったからといって、たかだか言いつけを守らなかったくらいで、えらく居丈高に罰を与えるわけだし、カインは弟殺しだからまだしも、人間どもが気に入らなくなったから贔屓のノア(ジョン・ヒューストン)家族以外は皆殺しだとか、分不相応に思い上がった塔を建てるから、言葉が通じなくしてやるだとか、叶わぬものと諦めかけていた我が子イサクを年老いて得たアブラハム(ジョージ・C・スコット)に息子を生贄として差し出せだとか、『クォ・ヴァディス』の暴君ネロも足下に及ばないろくでなしぶりが実に率直に描かれていることが目を惹くような作品だという気がする。

 スペクタクル的には、“バベル【混乱】の塔”のあと、アブラハムとイサクのうじうじ話に失速して、アブラムの妻サライ(エヴァ・ガードナー)と侍女ハガルの鞘当てなどといった実にスケール感を削ぐドラマが延々と続いた挙句に、とんでも神の横暴が始まるものだから、かなり退屈してしまった。バベルの塔までは、なかなかのスケール感を湛えた画面だったのに勿体ないことだ。

 ただエンドロールを眺めていたら、音楽が黛敏郎とクレジットされたので、驚いた。
by ヤマ

'21. 9.15. BSプレミアム録画
'21. 9.17. BSプレミアム録画



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