『神田川』['74]
監督 出目昌伸

 映画タイトルと同名曲が大ヒットしたことを受けての映画化だと思われ、その作詞をした喜多条忠の原作による物語ということで、四十七年前の関根恵子と草刈正雄を観られる、おそらくは哀愁を帯びたノスタルジックな恋愛ものだろうと思っていたら、思いのほか重くシビアな話で、かなり驚いた。

 四畳半フォークと謳われた和製フォークの代表的なグループかぐや姫の名に重なる物語を折り込み、喜多条忠ならぬ上条真(草刈正雄)が失ったものを描いて、なかなか痛切だったように思う。

 本作に映し出されていた大学キャンパスの二年後に自分が通っていた当時を思い、子供たちにまったく受けていない劇を行っていた人形劇Wサークルの描出から始まったオープニングを観ても、庶民感情から乖離して蜜柑ならぬ礫を受けるに至った学生運動の残像を時代性を表すものとして取り上げているにすぎず、真の所属していた人形劇サークルで彼に想いを寄せている女帝的存在の金持ち女学生(黒沢のり子)がマキシーと呼ばれているのを耳にしても、かぐや姫のファーストアルバムに収められていた喜多条の作詞した♪マキシーのために♪から取ってきている意匠くらいにしか思っていなかったので、歌詞どおり睡眠薬を飲んで自殺してしまったことに唸った。

 映画の題名である♪神田川♪の歌詞が喜多条自身の学生時代をモチーフにしていることは、むかし仄聞したことがあるように思うけれども、マキシーもそうなのだろうか。映画に描かれたとおりのことがあったわけではなかろうが、何とも気になった。そして、劇中に流れた雨に消えたほゝえみこそが、竹林で出会ったかぐや姫とも言うべきミチコ(関根恵子)を歌ったものだったという映画になっていたように思う。「やりなおそう」との真の言葉に黙って俯き小さく首を横に振っていたミチコの風情に二人の負ったものの重さがよく表れていて、大いに感じ入るものがあった。やはり関根恵子は、いい。

 作中で映し出された真の本は詩集ではなく、奥浩平の『青春の墓標』だったから、林静一のイラスト画をバックにしたオープニングクレジットの後に始まった冒頭にて提示されていた学生運動は、単に時代性を表したものに留まっておらず、ミチコや親友ビゼン、マキシー、ミチコに宿った命と同様に、真が学生時代に失った「やりなおしのきかないもの」として描かれていたのだと思い当たった。

 僕自身は、神田川べりに暮らしたことも上流を訪ねたこともないけれども、面影橋から鬼子母神前までの都電に乗ったことも電停に下りたこともあるし、かぐや姫の歌は高校生時分によく聴いていたから、いろいろな想いが湧いてきた。そして、あの頃のかぐや姫の歌をあれもこれもと聴いてみたくなった。
by ヤマ

'21. 9.16. スカパー衛星劇場録画



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>