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『見知らぬ乗客』(Strangers on a Train)['51] 『私は告白する』(I Confess)['53] 『ダイヤルMを廻せ!』(Dial M for Murder)['54] 『引き裂かれたカーテン』(Torn Curtain)['66] | |||||
監督 アルフレッド・ヒッチコック
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最初に観た『見知らぬ乗客』は、名前は知っているけれども未見だと思うものの、もしかすると、むかしTV視聴しているのかもしれないと思いながら観たら、まるで観覚えがなかったから、思いのほか面白かった。 手にしたライターで足がついてしまう男ブルーノ・アントニー(ロバート・ウォーカー)を描いた、足で始まる映画だったように思う。昨今やたらと目につくサイコパスものの奔りのような作品だった。七十年前の時代に見合った悠長と七十年前の映画だとは思えない緊迫感の同居した画面のリズムがなかなか刺激的だと思いつつ愉しんでいたら、とんでもないメリーゴーランドの場面が現われ、唖然とした。誰よりも一番怖い思いをしているのは、このクライマックス場面に居合わせた回転木馬の“見知らぬ乗客”たちじゃないかと笑ったところでタイミングよく、木馬に乗った坊やが周囲の悲鳴をよそに笑いかけてきて、すっかりしてやられた。 少しどころか、かなり鈍臭いガイ・ヘインズ(ファーリー・グレンジャー)のキャラクターがつい最近観たばかりの『フリー・ガイ』のガイに似た雰囲気を漂わせているように感じたのも、妙に可笑しかった。思えば、彼の妻ミリアム・ジョイス・ヘインズ(ケイシー・ロジャース)は、フリー・ガイの恋するモロトフ・ガールに少し面影の似た眼鏡っ娘でもあった。 それにしても、'51年の映画で、原子力は過去のものだなどと新エネルギーの話を始めるブルーノに、すっかり驚いた。これは、パトリシア・ハイスミスの原作にもあった場面なのだろうか。交換殺人は「スワップ・マーダーズ」と言うのかとか、七十年前のテニスのプレイ・スタイルの鈍臭さだとか、いろいろ興味深く観て、実に愉しかった。 翌日に観た『引き裂かれたカーテン』も名のみぞ知る初見作品で、シーツを被っていちゃついている男女二人の物理学者で始まり、その二人が毛布を被っていちゃつき始めて終わるスパイものだったが、同年代作のジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)のスマートさからは程遠いマイケル・アームストロング教授(ポール・ニューマン)だったように思う。だが、熱烈キスを繰り返すサラ・ルイーズ・シャーマン教授を演じたジュリー・アンドリュースには、思いのほか艶があったような気がした。 ジュリーは、お相手がポールであれ、クリストファー・プラマーであれ、劇場から逃げ出すのは、大の御得意のようだ。それにしても、標的のリント教授は、あれほど単細胞でいいのだろうか? 農家でのグロメク殺害場面のいくら何でもには、思わず笑ってしまったけれども、リント教授のいくら何でもには、さすがに唖然としてしまった。 最も目を惹いたのは、ガイドブックの写真そのままに重なるベルリン美術館にマイケルが入っていき、無人の美術館を歩き抜けていた場面で、'66年当時にベルリンで撮影を果たしたのかと恐れ入ったが、実際のところ、どうだったのだろう。物語的には、鉄のカーテンが引き裂かれたようにも思えなかったが、ロケ撮影ではカーテンを引き裂いていたのかもしれない。 観たばかりの『見知らぬ乗客』の翌々年の作品『私は告白する』は、三十九年前に観た『告白』['81]がらみで気になっていた宿題映画だ。七十年近く前の作品ながら、現在に通じるアクチュアルな問題を浮き彫りにしていて、大いに感心した。 マイケル・ローガン(モンゴメリー・クリフト)が戦場から帰還してまだ五年という時代だったから、戦勝国カナダに暮らすドイツ移民の苦境が背景にあるということだろう。それで以てケラーの凶行が許されるものではないのだが、最後に「許してください」と事切れていたケラーは、妻アルマへの気遣いの様子からも、極悪非道の犯罪者という描き方はされていなかったところが、大いに目を惹いた。 ローガン神父からの慈悲を得て質素な暮らしの安寧を得てはいても、おそらくケベックでの暮らし向きとドイツ時代の生活落差が余りに激しかったのだろう。あの程度の貧困で強盗殺人までするかと言う向きもあるのではないかと思うが、貧困の体感というのは、当人の感じる落差に負うところが大きく、客観的には測り難いものだという気がする。妻に苦労させている我が身の甲斐性のなさを深く恥じ傷ついている様子だった。そのことを、議会で男女同一賃金の実施を求めて演説をしていたグランフォール議員の妻ルース(アン・バクスター)がロバートソン検事の児戯にも等しい遊びに興じているパーティに参加している姿と、教会の住み込み用務員暮らしのアルマとの対照によって、よく浮かび上がらせていたように思う。アルマも嘗てはルースの側だったのではなかろうか。そのように感じさせるだけの理性と知性を窺わせていたような気がする。 ケラーに巣食った邪心や不満は誰の心にも宿り得るものながら、現実の犯罪行為にまで人を追いやる要因は、彼が最後に叫んでいたように、差別と貧困によってもたらされる“孤独”にこそあるのだろうと僕も思う。少なくとも、盗っ人猛々しいなどと謗られるようなものではない“心の叫び”だと感じた。それとともに、現代社会に蔓延し始めている排外・排他意識のことを想起した。 そして、思いのほか理性的で真っ当な評決の元に無罪となったローガン神父に対して、群衆から浴びせかけられる罵声と白眼視に、「有罪のほうが良かっただろう」と声を掛けるケラーの心中にあったのは、「ドイツにいたほうが良かった」との彼の思いだったような気がするとともに、メディアが公表した一部の情報のみによって無責任な誹謗中傷を浴びせかける匿名群衆の姿に、現代の情報社会が露呈させている、無責任で卑しい衆愚を観るような思いがして畏れ入った。 また、ヒッチコックらしいユーモアとスリリングを湛えた運びも、なかなか冴えていた気がする。タイトルの「私」が誰を指すのか、刻々と変化していき、告白するのかしないのか、どのようにするのかどのようにしないのか、非常に緊迫感があって大いに感心した。のっけから己が殺人をローガン神父に告白【告解】していた姿に、『私は告白する』というタイトルの作品でいきなり告白とは何だろうと訝しんでいたら、ローガン神父の不在証明に掛かるルースの告白【証言】に焦点が移り、結果的に証言が仇となって一層の苦境に立たされたローガン神父が果してケラーの告解を漏洩【告白】するや否やに転じ、更には、法廷で神父や夫の証言を傍聴しながら二人の振る舞いを注視するアルマが繰り返し映し出され、彼女からの告白【告発】が起こるか否かが提起されるのだから、鮮やかなものだ。誰が何を口にし、口にしないのか。それによって事態がどう動いていくのか。電話口で不用意に事件絡みの話を洩らし、ルースに容疑者情報を与えてしまった過失をラルー警部(カール・マルデン)に詫びていたロバートソン検事も含めて、なかなか深みのあるエンターテインメント作品だったように思う。誰が、いつ、言う言わないのサスペンスが、なかなかの妙味だった。 ショットとしては、いよいよ逮捕拘束が目の前に迫ってきて、苦悩しながら街を歩き回るローガン神父が映画館に貼り出されていた映画の逮捕場面を映し出したスチルの前を通ったり、十字架を背負って歩くキリスト像の影を近景にして広道を歩いていたのが、印象深い。さすれば、オープニングで教会から殺人現場までのカメラ移動に際して「Direction」と掲示していた矢印板は、いったい何だったのだろう。 それにしても、昔の映画は、登場人物に品位があって気持ちがいい。告白するにしてもしないにしても、庇い方も身の呈し方も実に奥床しい。恋人時代のルースとマイケルが、出征を前に会った最後の逢瀬についても「その夜、踊りました…」と表現しているのを見て、遠い昔、親しかった同窓生女子が当時付き合っていた男と「夕べ、アホした」と嬉し気に洩らした言葉の遣い方に、妙に微笑ましいものを感じたときのことを思い出した。今の時代の作品だと、七年間結婚生活を重ねてきた夫に向かって愛していないと明言するルースが、わざわざマイケルを救うために警察を訪ねながら、五年前の件をあそこまで言いたがらないとは思えないし、ケラーの人物造形にも苦しいものがあるようになってくる気がするけれど、何と言っても、第二次世界大戦から五年しか経っていない頃の物語なのだ。 同日に観た『私は告白する』の翌年の作品『ダイヤルMを廻せ!』は、「これが、かのダイヤルMかぁ」と思いながら初めて観たのだけれど、めっぽう面白かった。面白さだけで言えば、これまで観て来た20作品のなかで一番かもしれない。 完全犯罪について、「小説のなかでは構築できるけれども、現実は思い掛けないことが起こるものだから、実行する気にはなれない」というようなことを言っていた推理作家マーク・ハリディ(ロバート・カミングス)の言葉どおり、元テニスプレイヤーのトニー(レイ・ミランド)が一年がかりで綿密に計画してきた完全犯罪のシナリオが、次々とアクシデントに見舞われていくのだが、すかさず機敏に即応していくトニーの頭の回転の速さと緻密さに対して、いかにもテニスのツァープレイヤーに相応しい反射神経の良さを感じて、舌を巻いた。なかでも、何をやっているのか不思議だったストッキングの始末の謎が判明したときには、恐れ入った。 そのうえで、結局は鍵が鍵だったという話の顛末に驚きながら、トニーの嵌った“罠でもトリックでもない穴”に、「思い込みって怖いよなぁ」とすっかり感心してしまった。思わずそのショットがきちんと収められていたのを僕が見落としたのか、巻き戻して確かめたくなったが、初見作はスクリーン観賞することを旨として来た己が映画観賞歴を尊重して、見送った。 それにしても、本作でのケンブリッジ大学というのは、トニーの妻マーゴ(グレース・ケリー)を寝盗っていたマーク・ハリディもアメリカから留学してきていたようだったし、トニー・ウエンディスにしても、C・A・スワン(アンソニー・ドーソン)にしても、ろくでもないものだと思った。こういう書き方ができるのは、原作者自身がケンブリッジ卒なればこそのような気がした。 タイトルの『ダイヤルMを廻せ!』は、原題が示しているとおり、トニーからスワンへの殺人決行指令となるダイヤルだったわけだが、トニーの自宅の電話のダイヤルナンバーがMの文字の刻まれた穴から始まる番号だった芸の細かさが流石のヒッチコック作品だと思った。 100分余りの作品でインターミッションが入ったことには驚いたが、どうやら本作が立体映画として製作されたことが影響していようだ。この立体映画ということに関しては、高校の新聞部の先輩である映画愛好家が「そもそも、何で立体的に見えることがいいことなんだろう」と問い掛けていたが、まさに同感だ。例えば、絵画を観る際に動きの描出を鑑賞しているなかで、実際に動かされたりしたら、座興として面白がったにしても、絵画において動きの描出を味わう楽しみは失せてしまうようなものだと思う。 もっとも、映画はモノクロが神髄で、カラー作品は邪道だなどとは最早ついぞ思わないように、新技術としての立体化という実験を試みることまでも否定したくはないとの思いも湧く。だが、『アバター』['09]がそうだったように、3D眼鏡を掛けて観る画面は、確かに立体感は出るけれども、全体的にサイズダウンして見える気がしてスケール感が減退してくるし、画面が暗くなる感じがあったような気がする。プラマイゼロというよりも少々マイナスで、それはそれ、これはこれ、という感じだ。 | |||||
by ヤマ '21. 8.31. BSプレミアム録画 '21. 9. 4. BSプレミアム録画 '21. 9. 4. BSプレミアム録画 '21. 9. 1. BSプレミアム録画 | |||||
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