『地下鉄のザジ』(Zazie Dans Le Métro)['60]
監督 ルイ・マル

 これが『地下鉄のザジ』かとの永の宿題映画の一つを片付けてみて、やはり僕は、ルイ・マルとの相性があまり良くないと改めて実感した。オープニングで自称芸術家のガブリエル(フィリップ・ノワレ)が匂いについて唐突に語り始めるわけだが、臭いになるか匂いになるか、換言すれば、臭気になるか香気になるかは紙一重のところがあって、嗜好の個人差によるところが極めて激しいとしたものだ。まさに、これから始める映画の趣向・テイストについてのエクスキューズになっていて、いかにもルイ・マル的だと思う。

 ルイ・マル作品は、十代の時分に『ビバ!マリア』をTV視聴し、『ルシアンの青春』をスクリーンで観た後、'84年に『死刑台のエレベーター』、'86年に『恋人たち』、'89年に『さよなら子供たち』『アトランティック・シティ』、'91年に『五月のミル』、'93年にダメージを観ているだけだが、僕が五月のミル』['89]の映画日誌部分的には一見、ユーモアがあったり、エスプリの効いた風刺や皮肉があったり、ナンセンス・ギャグで楽しませたり、と盛沢山なのだが、そこにマニアやインテリに迎合したスノビズムが色濃く窺われるために、作家的主体性が稀薄になって作品の全体的イメージがいささか散漫であると記したのは、ちょうど三十年前になる。本作は、今の僕の歳に亡くなったらしい彼の晩年の作品『五月のミル』から三十年遡った、まさに僕が『五月のミル』の映画日誌を綴った年頃に撮った作品というわけで、この奇遇とも思えるタイミングで宿題を片付けたことに縁のようなものを感じた。

 映画の序盤に台詞で“ヌーヴェル・ヴァーグ”という言葉が明示されるように、本作の主題は何と言っても“新しさ”なのだろうが、アメリカのクラシカルなスラップスティック・コメディを偲ばせつつ、ヘンなリズムの運びで展開していく本作の根底は、いかにも'60年代らしい“破壊のイメージに創造性を見出す潮流”に乗った作劇というかイメージ造形が行われていたような気がする。だから、『五月のミル』と同年に僕が観た『ひなぎく』(監督 ヴェラ・ヒティロヴァ)['66]や、具体美術協会にも参加して'60年代に活躍した当地の芸術家 高崎元尚が生涯そのテーマの一つにしていた“破壊- COLLAPSE-”などを彷彿させたのだろう。だがその一方で、映画としては些か古びてきている感の否めないところがあったように思う。同じ“新しさ”においても、創造性よりも新奇性のほうに寄った新しさを求めると、どうしても時の経過とともに“奇抜さ”の鮮度は後退せざるを得なくなるような気がする。

 ルイマルとしては、作中の台詞にもあったすべては夢のまた夢として完全にイカレてるを追いつつ、感情のイメージ化を試みていたように感じた。ある意味、ヌーヴェル・ヴァーグの本流に足場を置いている作品だったのかもしれない。ガブリエルの妻の台詞だったような気がするが、衣装について問われて裸が最高よ 女性であることで充分というのが原作小説にもあるものなのか妙に気になった。なぜか原作小説にはないような気がしてならなかった。



推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/3647438542022369
by ヤマ

'21. 8.19. DVD観賞



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>