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『ダメージ』(Damage) | |||||
監督 ルイ・マル | |||||
パッションという人間の心性は、大概の場合、ある種の憧憬と羨望をもって美しきものとして語られることが多い。しかし、現実世界においては、およそこれほど始末の悪いものはないというのが本当のところではなかろうか。実際、それがいかなる種類のものであれ、他者のパッションというものに晒された人は、困惑してしまうのが常である。同じパッションを持ち合わせている場合は別だが、そうでなければ、同調し、共有することを強迫されているような居心地の悪さを覚えないではいられない。いかなるパッションであるかは不問のままにして、パッションなのだから当然にして受け入れられ、許されるべきものだと迫ってくることが多いからであろう。そして、その名のもとに行われるものは、相当な逸脱行為でも総て正当化されるか、少なくとも止むを得ないものだとされる。それほどまでに特権的なものとされるのは何故であろうか。恐らくそれは、パッションが人間の心性のなかでも取り分けピュアなもので、尚且多くの人がルーティーン化した生活のなかで失ってしまったものだとされているからであろう。 この作品は、そういったパッションのなかでも、我が身に降り掛らない限りにおいては殊更に支持されやすい、恋愛におけるパッションの挙句の果てを描いていると言える。ノーブルで優等生的な家族関係の有様に飽き足りなさとある種の冷たさとを感じ、その原因は父親のパッションを欠いたパーソナリティにあるという非難めいた不満を漏らした息子マーティンは、その報いでもあるかのように父親スティーブンのとんでもないパッションに晒されて命を落とす。他方、そのリアリティがまさしくファム・ファタルとしてしか了解できない出会いによって初めてのパッションに捉われたスティーブンは、生命以外の総てを失い、しかも恋に殉じた魂の切なさすら、ファム・ファタル変じて一児を抱いた何の変哲もない母親となったアンナを見てしまうことで保ち得ず、拡大された写真のなかのタナトゥスの陰射すノスタルジックな過去の時間に閉じ篭るほかなくなっている。 恋はともかく、愛がパッションだけで実現されることなどあり得ない。恋は、愛に向かうことも破滅に向かうこともあり得るが、愛とは、そもそも創造でなければならない。ダイナミズムを宿した創造にパッションが不可欠ではあっても、それだけでは事足りない。前述の文脈に沿って言えば、美しきものとして語られるべきものは、創造的なパッションでなければならないということである。ところが、現実のなかでは、創造的なパッションよりも滅びへと向かう黒い情熱のようなパッションのほうが、よりパッショネイトなものとして認知される傾向にある。パッションないしはパトスの持つ『受苦』といった意味合いからして、産みの苦しみよりも滅びの苦痛のほうが一般に理解されやすいからであろうか。しかし、本質的には、陣痛になぞらえるまでもなく、創造の苦しみは、断続的に、繰返し更新されていく苦しみであり、滅びに至る道のりは、その入口の苦痛は強くても次第に脱感作を招き、無感覚へと収斂していく苦しみである。前者が後者を凌ぐのは、自明のことだと言わねばならない。 ここで再び映画のことに話を戻せば、この作品がスティーブンのパッションを滅びに向かう黒い情熱として、その挙句の果てをそれなりに明確に現出させ得ているとしても、パッションそのものについて、例えば前述したような視点を充分に提示しているとは言い難い。例によってルイ・マルらしい作家的主体性の希薄さと対象化の甘さにより、パッションに対するネガティヴな認識を提示する知性とそのようなパッションに情緒的に惹かれる心情とが作家のなかできちんと対決されないままに提示されてしまっているからである。無論、対決の後にいずれかの側に立つべきだというのではなく、まさにその対決の有様のなかにこそ、彼の作家的主体性が窺われなければならないのに、対決がなされていないということである。 従って、アンナにとっては、未決のトラウマからの回生のための無意識の内の繰返しのプロセスとしてリアリティのある恋愛だが、そのなかで、パッションの立役者であるスティーブンの印象は、ジェレミー・アイアインズのジュリエット・ビノシュとは比べ物にならない好演にもかかわらず、それこそファム・ファタルとしか言い様のない女に翻弄された愚かな男でしかない。その責は、ほとんど総てルイ・マルにあるという気がする。 | |||||
by ヤマ | |||||
'93. 6.24. 高知にっかつ | |||||
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