『ブルースカイ』(Blue Sky)['94]
『プレイス・イン・ザ・ハート』(Places In The Heart)['84]
監督 トニー・リチャードソン
監督 ロバート・ベントン

 高校時分の映画部部長のセレクションによる第8回映画青春プレイバック合評会課題作として観た二作品だけれども、僕が若い時分に観ているのは『プレイス・イン・ザ・ハート』のほうだけだ。

 先に観た『ブルースカイ』では、トミー・リー・ジョーンズは告発のとき['07]に先立って、こういう映画に出ていたのかと驚いた。しかも役名が同じハンクだ。脚本・監督を担ったポール・ハギスは、本作を意識していたのかもしれないと思った。

 いま日本で本作を観ると、ハンク・マーシャル少佐(トミー・リー・ジョーンズ)が鞄のなかにしまい込んでいた“ブルースカイ”ファイルが赤木ファイルに思えて仕方がない。そして、己が保身のためにハンクを精神病院に強制入院させ、薬漬けにして廃人にしようとかかっていた彼の上司ジョンソン大佐(パワーズ・ブース)が、元理財局長に重なって見えてきて仕方がなかった。核技術者のハンクが赴任してきた当初に核開発は政府や科学のためではないとあくまで己が地位の基盤たる軍のためだと釘を差すような人物であり、下心の成就のためにハンクの長期不在作戦の罠を仕掛けてハンクの妻カーリー(ジェシカ・ラング)をたらし込みつつ、己が保身のためには彼女を騙して、ハンクを強制入院させる書類にサインさせる卑劣な工作をするような下衆の極みだった。

 人形コレクションの趣味やハンクが娘に言っていた部屋飾りの上手さとセンスからすれば裕福な家に生まれながらも、どこか軽薄な蓮っ葉感の拭えない、かつて女優になりたかった主婦カーリーをジェシカ・ラングがなかなかよく演じていたように思う。そして、夫のハンクがモテてる君を見るのが好きだった。だが、君はいつもやり過ぎると零していた“やりすぎカーリー”そのものだったような気がする。しかし、娘も呆れ果てる桁外れの“やりすぎカーリー”だったからこそ、軍を向こうに回して夫を窮地から救い出すこともできたわけで、その破天荒の根っこのところにある“本質”を、いつまで耐えられるかなどとぼやきつつ、信じ愛したハンクに果報が得られて本当に良かった。

 二人の娘に母さんは水なんだ、氷になったり、沸騰したり手に負えないこともあるけれど、父さんは、(恵みの)水の本質のところを愛しているというようなことを語っていたけれども、これはなかなか言えるものではない。そこには、母さんを人間、父さんを神に置き換えられるような“神の愛”(信仰者においては“真実の愛”ということになるのかもしれない)を説くキリスト教的寓意が込められていたような気がする。そして、砂漠の核実験場に単身乗り込み、騒ぎを起こして逮捕され、地下実験の取材に集まっていたマスコミ記者から一斉にフラッシュを浴びて、念願叶ったかのような満悦の笑みを浮かべていたカーリーに思わず笑った。

 アメリカが核実験を地上から地下実験に移行させ始めた時分を舞台にしていたから、四半世紀前の本作から更に三十年くらい遡る1960年代の話ということになるわけだが、いま観る僕がたちどころに赤木ファイルを想起するほどだから、権力組織のありように古今東西いっこうに違いはないということだ。ハンクが見せていたような良心が踏みにじられずに済む仕組みは、どのようにすれば可能なのだろうと思わずにいられない。やはり“ブルースカイ”並みにパワフルなカーリーでないと敵わないのだろうか。

 しかし、十代の娘二人抱えながら、夫が部下とヘリで周回するビーチでトップレス姿をちらつかせて注目を浴びたがる“やりすぎカーリー”のパワフルさとともに、娘があれくらい大きくなるだけの結婚生活を経ていながら、たかだか二週間の出張に対して夫に毎日電話してくることを求めるような“さびしがりカーリー”であることに日常的に晒されるのは、引っ越しストレスで爆発させる破天荒な振る舞い以上にきつい気がしないでもない。しかも、それらの事々は、脂下がった下衆大佐の誘いに乗る軽さも含めて、彼女自身が語っていたように深い考えはないのだから、実に始末が悪い。

 だが、民間人に被曝させたことに対してハンクが問題にしていた“罪の意識”は、ジョンソン大佐や元理財局長などと違って、カーリーには自覚できるからこそ、ハンクが言うところの“水の本質”なるものを失いはしないわけだ。この“赦し”と“罪の意識”こそが本作の大事なポイントだという気がした。なかなか観応えのある作品だったように思う。


 翌々日に観た『プレイス・イン・ザ・ハート』は、三十六年前、二十代の時分に観て以来の再見だった。感想自体は、当時とほとんど変わるところがないけれども、言葉の使い方にはさすがに少々違和感があった。

 流れ者の農夫モーゼスを演じていたのが、ダニー・グローヴァー だったことに覚えがなく、いま観直すと、エド・ハリスだの、ジョン・マルコヴィッチだのといった、なかなかのキャストだったことに感心した。しかし、やはり本作は、料理の才はなかったようだけれども人を動かす才能に長けていたエドナを演じたサリー・フィールドの映画だと改めて思った。製作時点から三十年遡っていた『ブルースカイ』どころか、倍近い半世紀を遡った1935年の大恐慌時代を舞台にしていた本作もまた『ブルースカイ』同様に今に繋がるアクチュアリティを秘めていて、実に感慨深かった。

 当時の日誌には人の心を動かし、人を感化し得る人間のパーソナリティーって何なのだろうという点で、彼女のキャラクターは興味深い。それは、知力でも財力でもなく、人にラベリングしない人間性と自分が先頭に立って励むガッツであると記してあったが、黒人も障碍者も差別せず見下すところのない開かれた視線以上に印象深かったのが、責めたり咎めたりすることを厭うエドナの姿だった。夫を亡くして父親役も務めなければならなくなって、息子フランクに罰を与えた後、もう二度としないと盲人の間借り人ウィル(ジョン・マルコヴィッチ)に告げていたが、映画の最後で高らかに謳い上げられていた「愛」の核を「赦し」に置いている作品だと改めて思った。

 エドナが窮地を救われた始まりは、モーゼスの盗みを赦して雇い入れたことだったし、エドナの姉マーガレット(リンゼイ・クローズ)が得る救いも、こともあろうに親友のヴァイオラ(エイミー・マディガン)と浮気をしていた夫ウェイン(エド・ハリス)に与えた赦しからであるように描かれていた気がする。その点では、妻カーリーの過ちを赦していた『ブルースカイ』のハンクの得ていた救いほどに目に見える形ではなかったけれども、その人生観には相通じるものがあるように感じられた。

 そのことをファンタジックなまでに率直に描いていたのが、囚われ、拘ることから解放されれば、福音が訪れるというようなエンディングだった気がする。しかし、KKK団に加わるような人々が囚われ拘っている思い込みからの解放が、なかなか容易ではないことは、現今のブラック・ライヴズ・マター運動を想起するまでもないところが悲しい。

 興味深いのが、『ブルースカイ』のカーリーと『プレイス・イン・ザ・ハート』のウェインとの、浮気の対照だった。前者は、あくまで下衆大佐の下心による罠に嵌ったものであって、彼女自身に浮気願望があったわけではないような気がした。後者のような倦怠をカーリーが感じているようにはなかったからだ。カーリーは“やりすぎ”なまでに、夫に対して“男として見る気持ち”を持ち続けていたように思う。それとは反対に、ウェインの味わっていたであろうマンネリ夫婦の倦怠は、おそらくは妻マーガレットがカーリーの保っていたものを夫に対していつしか見せなくなっていたことから来ているように感じた。そして、まだヴァイオラたちが町を去る前にマーガレットが夫を赦す気持ちになれたのには、そのことへの気づきと反省があるような気がした。




*『ブルースカイ』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
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*『プレイス・イン・ザ・ハート』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
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推薦テクスト:「Muddy Walkers」より
http://www.muddy-walkers.com/MOVIE/place_in_the_heart.html
by ヤマ

'21. 7.12. DVD観賞
'21. 7.14. DVD観賞



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