『スペンサーの山』(Spencer's Mountain)['63]
監督 デルマー・デイヴィス

 十代の時分にTV視聴して感慨を覚えた記憶のある作品の四十二年ぶりの再見だ。当時、僕自身が親元を離れて大学進学したばかりだったので、殊更だったのかもしれない。アメリカでの大学進学事情が、映画製作当時どうだったのか僕は知らないけれど、'60年代でもこういう感じだったのだろうか。

 映画のなかでは、いつの話か明示されていなかったけれども、示されていなければ、基本的には同時代というのが原則だろうし、倒木の下敷きになって絶命した祖父(ドナルド・クリスプ)が生前、墓参していた「ハンニバル・スペンサー」名の墓石に刻まれていた没年が1956年だったから、そこからしても本作に描かれた時代は、映画製作当時と同時代ということになる気がする。その墓石が、九人の息子たちに分配して委譲したと遺言に記していた祖父に“スペンサーの山”を与えた最初の入植者たる曾祖父のものだったとすれば、少し祖父と曽祖父の歳が近すぎる気がしなくもないが、相当な長寿だったのだろう。だが、もしかすると少し時代を繰り下げて、当時の都市部では既に失われている、田舎の人々の暮らしの純朴を謳い上げた作品だったのかもしれない。

 そういう点では、フラガール['06]など日本の高度成長期時代を描いた映画にもよくあったようなものに通じるところを感じつつ、純朴とは程遠いプリミティヴに満ちた土地を旅立つ青年を描いた祭りの準備['75]をも想起して、そのテイストの対照ぶりに感慨を覚えたのは、僕が『スペンサーの山』と『祭りの準備』を観たのが、ちょうど同じ時期だったからかもしれない。

 クレイ・スペンサー(ヘンリー・フォンダ)が息子の不合格の理由を質しに行った大学の学部長秘書が、来客の辞した後にボスにかけていた言葉「ご立派!」(1回目)、「生き甲斐ですわね」(2回目)に思わず笑みが漏れた。こういう呼吸が映画の好いところだと改めて思った。決意をもって進む者に世界は道を開くことが謳い上げられ、次代を担う人々への想いが、実践として上の世代のふるまいに顕われている作品だった。決して現代の要人たちのように「今だけ、カネだけ、自分だけ」を臆面もなく繰り広げたりは、できなかった時代の映画だと強く思った。

 いまや奨学金ビジネスだの、ブラックバイトだの、アイドルビジネスだの、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の大人たちが、若者を消費し食い物にして憚らない惨状が余りにも目に付くものだから、クレイボーイ(ジェームズ・マッカーサー)の進学のために父親を説得しにやってくる女教師やラテン語の個人教授を買って出る牧師のみならず、当世ではとても罷り通らない入学許可をクレイの人物を見極めたうえで貴男の息子ですよね、奨学金は出せないが、授業料を払っていただけるのなら来てもらいましょうと即決する学部長、殊のほか大事な“スペンサーの山”を処分してしまう父親、それを心から喜んでいた母親(モーリン・オハラ)たちの姿に感銘を受けた。次代を担う人々を育むことこそが、大人の責務であり、生き甲斐だった時代の作品であることが偲ばれるように感じた。
by ヤマ

'21. 6.13. DVD観賞



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