『ファーザー』(The Father)
監督 フロリアン・ゼレール

 二年前に橋爪功と若村麻由美による舞台劇で観た『Le Père(ルペール) 父』の戯曲作者自身が監督を務めた映画化作品だった。高知市文化プラザかるぽーと大ホールでの公演は、野田秀樹が芸術監督を務める東京芸術劇場と佐渡裕が芸術監督を務める兵庫県立芸術文化センターとの共同制作による翻訳劇で、認知症が進行する父を対象として描くのではなく、認知症が進行する父の側の視点で描いた作品だったことを、観終えて感得した覚えがある。道理で、記憶の混濁や相前後する時間、人物像が一変してしまう得体の知れなさなどが頻出していたわけだと思った。

 いずれも、認知症に見舞われ進行するなかで味わうことなのだろうとの納得感があり、よく出来た芝居だとは思いつつも、数々の困惑と不安と朦朧に見舞われ、この延長にあるのが認知症に見舞われた感覚なのかと観終えて少々気が塞いだ。なんとも残酷な作品だという気がした。

 身近な人の識別ができなくなる認知症患者の姿は数々の芝居や映画で観て来たが、このような形式のものは他に覚えがない。人物把握が困難になる患者の側から見れば、著しく人格的統一感を欠いた姿で人が立ち現われてくるようになるのだから、宜なるかなとの想いが湧いた。全てのことが不確かになるなかで、強がらずにいられない己の足元が次々と掬われていくのだから、押し寄せる不安というのは、如何ばかりかという気にならずにはいられなかった。父アンドレを演じた橋爪功は言うまでもなく、娘アンヌを演じた若村麻由美が、その半年ほど前に観たばかりの『チルドレン』に続いて、なかなかの好演だと思った舞台だった。

 その印象からすれば、なんとも残酷な作品だというような対象化よりも、現実と願望と被害妄想と記憶とが混濁して妄想的に現れる知覚そのものに、より引き摺り込まれる感じがあって、何もかもが不確かに感じられる認識世界への脅えがよく伝わってきたように思う。最後に介護人のキャサリン(オリヴィア・ウィリアムズ)の肩に頭を凭せ掛けて母を呼ぶ、幼児返りをしていたアンソニー(アンソニー・ホプキンス)の見舞われている心許なさがよく分かるような気がした。

 そういう意味では、舞台劇よりも映像化に適しているような気がする。施設の介護人ビル(マーク・ゲイティス)の使い方にしても、数々の小道具や部屋構えの利かせ方にしても、映画のほうが舞台より優位にあるような気がした。十五年前に明日の記憶を観たときにほとんどホラー映画とも言うべき怖さがあったと綴ったことを思い出したが、本作は、それ以上に、徹頭徹尾“認知症が進行する父の側の視点”を貫いていたのだから、凄い。今ではもう言葉狩りに遭ってなくなっていると思われる「まだらボケ」のときが、多分イチバンきついということを最初につくづく感じさせてくれた映画は、十七年前に観た半落ちだったように記憶しているけれど、父親を施設に入所させた後、娘のアン(オリヴィア・コールマン)が見舞われる心境には、いかなるものがあるのだろう。

 亡父は今の僕とそう歳が違わない六十五歳で逝ったから、いわゆる介護はしておらず、八十五歳になる母親は、いまも隣家で自立した生活を送っていて、僕は介護の苦労を知らないのだが、これからを思うと、自分が見舞われてしまうことも含めて、いま何がいちばん怖いと言って、これに勝るものはないと思っている。




推薦テクスト:「Filmarks」より
https://filmarks.com/movies/88820/reviews/114034981
by ヤマ

'21. 5.16. TOHOシネマズ9



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>