『拳銃王』(The Gunfighter)['50]
『無頼の群』(The Bravados)['58]
監督 ヘンリー・キング

 このところ、'70年代西部劇やマカロニウエスタンを続けて観ていたからか、『拳銃王』を観ると、やはり'50年代のハリウッドウエスタンがいいなと改めて思った。

 ガンヒルの決斗』['59]の映画日誌人としての「格」に観応えのあるエンタテインメントだった。西部劇のこういうところが好きだったんだなぁと改めて思ったと綴ったことを想起させてくれる物語だったような気がする。

 実在したジョニー・リンゴは、三十歳過ぎで死んでいるようだから、「三十五歳にもなって懐中時計一つ持っていない」と“タフなガンマンの生き様”なるものを自嘲していた、アープと双璧を為す西部随一の早撃ちとの勇名を轟かせていたジミー・リンゴ(グレゴリー・ペック)の人物造形そのものは、設定を借りたジョニー・リンゴとは、ほぼ無関係のフィクションなのだろう。

 西洋時代劇とも言うべき西部劇の描くガンマンの造形には、日本の時代劇の剣豪と重なるところが多々あるように思うが、本作などもそういう翻案ものではないかと思わずにいられないほど、殺傷能力に秀で数々の果し合いで名を挙げつつも、負わされる孤独と虚名のもたらす毀誉褒貶に空しさを噛み締める男の姿が印象深い作品だった気がする。

 リンゴの相棒だった凄腕バッキーの情婦モリー(ジーン・パーカー)言うところの“昔とは違う内省”を述懐して「日々の喜びも成長もない」と語っていたことが印象深く、流れ者として生きるしかなくなっている境遇に漂っていた愁いが、酒場で出会った若者の「ヘレンと出会って生活が変わった」との話から受けた啓示によって、新たな生きる目標と可能性を見出した喜びに変化していただけに、最期の場面の無念さが沁みてきたように思う。

 久しぶりの再会に「正しいと思うことをしている、わかってくれ、ジミー」と語り、思慮深く筋を立てた振る舞いを終始遂げていたマーク・ストレット保安官を演じていたミラード・ミッチェルがなかなか渋く、光っていたように思う。バッキーが命を落としたのと同じような最期をリンゴに与えたハント・ブロムニーの卑怯な襲撃に対して、常に冷静だったマークがあれほどに激昂していたのには、リンゴの無念に加えて、ハントの愚挙に対する懸念を抱いて手を打ちつつ抑止できなかった己が過ちに対する慙愧の念も加わっていることが窺えて痛切だった。


 翌日観た『無頼の群』は、『拳銃王』から七年後、僕が生まれた年の同じ主演・監督コンビによる西部劇だったが、カラー作品になって色鮮やかになったものの、作品としての深みも緊迫感も『拳銃王』にはまるで及ばないなと観ていたら、最後に思わぬ捻りがあって、意表を突かれて満足した。

 自分が放牧に出た留守中に妻を暴行殺人によって失った小牧場主ジム・ダグラス(グレゴリー・ペック)が、信仰者に戻る話だった。おそらくは復讐の旅に就いたときから、神を捨てたのだろう。男勝りの旧知のジョセファ(ジョーン・コリンズ)が、別人になったみたいだと言っていたのは、五年前までの彼の敬虔さを知るゆえだったような気がした。

 女性には目がないことを自認するザカリー(スティーヴン・ボイド)とカード賭博好きのテイラー、字幕では先住民と出ていたけれどもネイティヴ・アメリカンではなく、メキシカンとのハーフだと思しきパラル(リー・ヴァン・クリーフ)、そして、妻子持ちのメキシカンであるルーファンの四人組を妻の仇と見定め、順次、討ち果たしていっていたが、その間の運びには今ひとつ緊迫感が足りなかったような気がしてならなかった。

 だが、死刑宣告を受けながら逃亡した四人のうち三人を始末した後に知った顚末に、己が浅慮によって神まで捨てた不埒を恥じ入りながらも、自失には至らず、平静を取り戻して行く姿を観て、神なり信仰なりの効用というのは、まさにこういうところにあるのだなと半ば感心した。神が肩代わりしてくれるというのは、こういう現世利益なのだとの納得感だった。

 観終えたとき、ジムにとっては筋違いの英雄視をしてくる町の人たちには、実際の顛末を語ることはないだろうと思いつつも、こののち後妻に迎えたであろうジョセファには、果たして話すのだろうかと考えたが、神が罪を負ってくれたことで、もう他に話す必要のないことにできたのではなかろうか。ジムの顔がえらく晴れやかだったのは、そういうことなのだろうと思った。神様というのは、なかなか有難いもののようだ。
by ヤマ

'21. 5.17. BSプレミアム録画
'21. 5.18. BSプレミアム録画



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