『ボクサー』(The Great White Hope)['70]
『Z』(Z)['69]
監督 マーティン・リット
監督 コスタ・ガブラス

 手元の記録によれば、『ボクサー』を観るのは、'78年7月のTV視聴【月曜ロードショー】以来だから、四十余年ぶりの再見になるが、当時、なんと書いてあるだろうと日記を紐解いたら、二度目の観賞でさらに評価が上がったようなことを記していた。パンフレット棚には、'71年4月発行のものがあるから、公開時に観たときに比べてということだろう。再見ということよりも、中学生と大学生という年齢差が大きかったのに違いない。

 1910年に初のヘビー級世界チャンピオンになったジャック・ジョンソンに材を得た作品で、原題は、当時、彼を王座から引きずり下ろす白人ボクサーが待望された際に使われた呼称のようだ。黒人が就くのは容認できない王座と大金を得て、そのような白熱を招いたばかりか、白人女性の恋人をひけらかす黒人ボクサーを問題視して、社会的抹殺を企てた政府高官と思しきディクソン(ロバート・ウェッバー)の下衆っぷりがお見事だった。彼が見張っているなか、「こんなことはしたくないね」とぼやきながら検事が行った審問に対して、失言を洩らすことなく見事に答えて検事に「法的には成果なしだな」と言わせるほどの聡明さと愛情深さを湛えていたエレノア・バックマンを演じたジェーン・アレクサンダーがとても素敵だった。前半の蜜月期との対照ぶりが印象深い後半の亡命生活のなかですっかり困憊して、遂には禁句として約した“パパ呼ばわり”を口にして身を投げる顛末が痛ましかった。

 実のところ、愛情よりも重荷に感じてしまう部分が湧いてきて自己嫌悪と敗北感を覚えていたに違いない。常に不敵の笑みを浮かべて、高笑いとともに突っ張っていた誇り高き黒人チャンピオンのジャック・ジェファーソン(ジェームズ・アール・ジョーンズ)が、遂にはエレノアに悪態をついていた様子に、真情としての彼女の再出発を願っての愛想尽かし狙いを看破していればこそ離れられない想いに駆られる彼女の苦衷が哀れで、ディクソンの執念深い仕打ちが不愉快極まりなかった。エレノアの「あなたの勝ちよ、パパ」との捨て台詞によもやそこまでの覚悟があったとは見抜けなかったジャックが、どんなに困窮しても頑として拒み続けていた政府要請の八百長試合の取引を自らに課して己がプライドを損なわせたのは、彼女を死に追いやった自身を罰するためのように感じられる運びになっていた。

 '90年代の『ジャングル・フィーバー』においてさえ、白人女性と黒人男性の恋愛を映画にしてタブーに触れたかのような宣伝がされていた覚えがあることからすれば、本作が最初ではなかったにしても、ジャックとエリー【エレノア】の昵懇のキスシーンが繰り返し登場する本作は、'70年という製作年次からすれば、けっこう果敢な演出だったのかもしれない。四年前に観たラビング 愛という名前のふたりによれば、'60年代後半でもヴァージニア州では黒人と白人の結婚が違法だったりしていたのだから、その半世紀前のアメリカが本作に描かれた有様であることに驚きはない。思えばグリーンブックの舞台も'60年代だったような気がする。

 確か『ジャングル・フィーバー』を観た頃に聞いたような覚えがあるのだが、『ラビング』に描かれた白人男性と黒人女性のカップル以上に、本作や同作に描かれた白人女性と黒人男性のカップルへのバッシングは強いらしい。本作では、ジャックが黒人男性からもそのことを詰られる姿や、エレノアが検事から露骨なセクハラ審問をされる姿が映し出されていた。求められれば、異常行為にも応じるのかと検事が質していた件は、おそらく法律違反で摘発できたのであろうオーラルセックスのことだったような気がする。

 それにしても、審問を終えた検事が「法的に成果なしだ」と言ったことに対して、無理筋どころではない「売春婦州間移送禁止令が使える」などと平然と奸計を巡らせるディクソンの姿を観ていると、先の国会答弁で特別規定に対して一般規定を優先させて高検検事長の定年延長を行おうとした政府の件を思い起こさずにいられなかった。黒人の自分と愛し合ったことでエリーが娼婦扱いされたことへの怒りに端を発した国外逃亡だったからこそ、政府が迫ってくる取引を頑として拒み続けたわけだ。

 誇り高いがゆえに屈辱感や敗北感にも敏感であったろうジャックは、自分とエリーの覚悟とタフさに自負もあったはずだけに、その覚悟の上を行く仕打ちを受けて、すっかりズタズタにされている姿が痛ましかった。ピンクのカラーシャツで出し抜けたと思った自身の甘さを痛感していたに違いない。ドイツでリングの代わりに舞台に立って、あのジャックがアンクル・トムを演じているときの情けなく引き攣った顔を観ながら、「ここまでやられるとは思わなかった…」と思わずにはいられなかったであろう苦衷が窺えて、悲壮だった。しかし、だからこそ屈服だけはしたくなくて突っ張っていたのだろうが、蚤や虱にもたかられるようになっていたメキシコでは、自分一人ならともかくエリーを巻き添えにしていることの重さに耐えられなくなっていたように思う。そして、そういう自分に対してもまた敗北感を味わっていた気がする。だからこその悪態だったように思う。

 それにしても、あれだけタフなエレノアとジャックでさえも、国家権力が潰しに掛かると、呆気なくボロボロにされるわけだ。その無惨な姿が描かれていて何とも苦しかったが、当時から一世紀を経て、今また国家権力の専横化が世界規模で進んでいる気のしてくる昨今が、何とも恐ろしい。


 こたび高校時分の映画部長からの合評会課題作として観る機会を得た『Z』のほうは、先に観た『ボクサー』の前年の欧州作品で、名のみぞ知る宿題映画だったが、思想統制のために、人間にも農産物同様に病害虫防除の溶液散布が三回必要だとの憲兵隊司令官による冒頭陳述というか演説によるオープニングが圧巻だった。もはや暗殺とすら言えない気のする“棍棒による撲殺を公然と行わせる有様”は、『ボクサー』に描かれていた権力の横暴と比較して、あまりに粗暴粗雑で陰湿さがなく、呆気に取られてムカつく暇もなかった。

 だが、現実には却って、これくらいに「何じゃこれ?」と唖然とするような、まるで衒いのない振る舞いが横行するのだろう。犯行後の実行犯バゴ(マルセル・ボズフィ)が嬉しげに躍り上がって、喜色満面でピンボールゲーム機に向かう姿を何とも言えない気分で眺めた。警察にも軍にも追われる後ろめたさがないとはいえ、思想的確信からでもなく、断れない立場において強者から命じられれば、殺人に容易く乗れる人々がいて、とんでもなく粗暴な振る舞いが出来てしまうのが人間なるものであるということだ。それは、戦時のように自身の命が脅かされるような極限状態ではなくても易々と起こるものであることが、今まさに香港でもミャンマーでも示されている。

 アメリカ・中国に限らず民主化を標榜する軍国のタチの悪さは、シビリアンコントロールでも、バランスオブパワーでも、その安全が保障されるものではないにも関わらず、それを必要だと思わされてしまう、憲兵隊司令官の言う“溶液散布”にこそあると改めて思った。今やジャック・ペランの演じた記者や、ジャン=ルイ・トランティニャンの演じた予審判事が象徴しているような社会的装置が働かなくなっているように感じられるから、尚更だ。
by ヤマ

'21. 4.12. DVD観賞
'21. 4.13. DVD観賞



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