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『ノマドランド』(Nomadland) | |||||
監督 クロエ・ジャオ
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エンドロールを眺めていたら、リンダ・メイも、スワンキーも、ボブ・ウエルズも、役名と同名だったのが目に留まった。herself でも、himself でもなかったから、作中人物の本人とも限らないが、ファーン(フランシス・マクドーマンド)が各地で出会ったキャンピングカー暮らしの流浪の民【ノマド】の名がずらずら挙がっていたので、あの数々のキャンプは、実際のノマド族だったような気がする。 さすれば、リーマンショックから3年経った2011年を舞台にしながらも、ほぼ十年後となる本作製作時もなお、不況下で大量発生したと思しき現代のノマドは、数多く存在しているのだろう。作中での年金は月550ドルと言っていたから、日本の国民年金とほぼ同額。年金だけでは暮らしていけないから、季節労働を渡り歩いて遊牧ならぬ遊働の民となっていたが、決して悲壮感はなく、むしろ自由を体現しているように映ってくる描かれ方をしていたことが印象深かった。序盤で、ノマド族のキャンピングカーがたむろしているキャンプの後景の街道を走っていたバイク集団はどこか『イージー・ライダー』を思わせるチョッパースタイルだったように思う。 ファーンの言う「ホームレスじゃない、ハウスレスよ」で暮らすノマドにもどうやら二種類あるようで、ボブ(ボブ・ウエルズ)が言うように、深い悲しみと喪失感を抱えていることは共通していたにしても、夫も家もなくしていたファーンがデイブ(デヴィッド・ストラザーン)に「豪華ね」と言うようなキャンピングカーで旅している者がいて、そういう層に向けた見本市が開かれている様子もきちんと描出されていた。総じて高齢者のほうが多いというのは、ボブの言っていたことだが、経済不況から追い込まれた層もあれば、若き日に憧れた『イージーラーダー』をリタイア後に身を以て叶えている人も少なからずいるのかもしれない。何と言っても『ロング、ロングバケーション』に描かれた世代なのだから。 だが、同じキャンピングカー暮らしの民でも、その二つが交わることは、やはりないわけだ。息子が幼い時分、ほとんど家におらず、大人になってからは話が合わず疎遠だったらしいが、孫も生まれるようになって家に戻ってくるよう息子から望まれ、すっかり好々爺が板につき、愛車のパンクにも気付かず放置する有様のデイブの申し出にファーンが応じる気になれないのは、当然なのだろう。それにしても、ファーンが偲んでいた昔の写真に写っていた女の子は、どうも彼女の娘のように思えて仕方がなかったが、娘との関係はどうなっていたのだろう。 それにしても、いかに大自然と共に過ごし、外気に親しむ生活を美しく見せられても、若い時分ならいざ知らず、年金受給年齢になってあのタフな暮らしを余儀なくされたら、僕にはファーンのような馴染み方はできないように思えて仕方がなかった。谷あいの清流で全裸になって浮き流れてみたいと思うような若さを失っていることを実感させられたようで、少々情けない気分に見舞われた。 姉から同居を誘われても、デイブから求められても、なびくことなく静かに決然とハウスレスのポンコツ車のほうを選ぶファーンの強靭さは、作中でも強く印象づけられていた“個性的な石”のように固く、“花束”などと違って朽ちていくこともないわけだ。開拓の民の末裔は、やはり違うよなぁと改めて思った。僕には「じゃあ、またね」を「See you down the road」と言える根性は、とてもありそうにない。だが、映友の一人によれば、クロエ・ジャオの監督・脚本による前作『ザ・ライダー』を観れば、もっと驚くのだそうだ。 大自然のなか、アメリカバイソンを捉えたショットも出てきたのだが、たった一頭で、奇しくも先般『捜索者』['56]を観て、「あのアメリカバイソンの群れなど、もう撮れなくなっているに違いない」と記したこともあり、改めてその意を強くしたところだったが、もしかすると敢えて孤高のアメリカバイソンとして、ファーンを擬えていたのかもしれない。 推薦テクスト:「チネチッタ高知」より https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/21040201/ 推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978891615&owner_id=1095496 推薦テクスト:「Silence + Light」より https://silencelight.com/?p=839#toc3 | |||||
by ヤマ '21. 4. 8. TOHOシネマズ1 | |||||
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