『燃ゆる女の肖像』(Portrait De La Jeune Fille En Feu)
監督・脚本 セリーヌ・シアマ

 一足先に観て来た映友から十八世紀のお話だと聞いたものだから、冒頭、女生徒ばかり集めた絵画教室などというものが当時、成立したのかなと意表を突かれた。今でこそ文化教室と言えば、その多くが女性受講者によって占められているものの、とてもそんな時代じゃないような気がしたからだが、中盤になって女性だけで執り行われる秘祭のようなものが現れて、そうか、この映画には男は登場しないんだと思ってしまったものだから、終盤で実に無造作に男の運搬人が台所の食卓に着席して食事をしている姿が出てきてビックリしてしまった。一番驚いたのは、この場面だったのだが、その後に現れた“最初の再会”の場面で、マリアンヌ(ノエミ・メルラン)が父親の名前で絵画を出品していると知り、冒頭に感じた疑問点についての得心がいった。本編の物語同様、かなり特異なことであって、やはり独立して画業で生計を立てている女性画家というわけではなかったようだ。

 それはともかく、過剰に緩慢とも思えるような運びによって、筋立てよりも画面を丹念に観るほかなくなる本作の画面は、その構図といい、光と影のあしらいといい、それこそ、色相・明度・彩度への拘りが実に絵画的に美しかった。その一方で、エロイーズ(アデル・エネル)の家の女中ソフィーの堕胎エピソードも含め、物語的には、あまり響いてくるところがなかった。本作は、カンヌ映画祭のクィア・パルム賞受賞作だとチラシに記されていたが、僕には、クィア感性はないようだと改めて思った。それなりに解釈はできるのだが、あまり響いて来ない感じが、先ごろ四十余年ぶりに観たばかりの、ある意味、実にマッチョなボクサー['70]とちょうど対照的で、自分がいかにどちらの側にいるのかを知らされたような気がした。

 印象深く使われていた四季♪の「夏」第三楽章は、二人の恋を夏の嵐の激しさとしたものだったのか、夏の嵐のような束の間の出来事として描いていたのか、どちらなのだろう。最初にマリアンヌがチェンバロで奏でたときは、定型的に前者のイメージを受け取っていたのだが、自分のほうを見向きもしなかったとぼやいていたマリアンヌが目撃した、“最後の再会”場面でのエロイーズの涙からすれば、激しさというよりは、束の間の出来事でしかあり得なかったからこそ、永く尾を引いていることを示していたように思う。確かに燃えるドレスの映像はインパクトがあったけれども、二人の恋そのものは、密やかに熱っぽく交わされてはいても、そう激しさを感じさせるようなものではなかったような気がする。

 一言も言葉を交わしようのない二つの場面を共に“再会”としていたように、画家らしく、言葉ではなく互いの“観察”によって交わるコミュニケーションを描いていたように思うが、観終わった後、これなら作品タイトルは『燃ゆる女の肖像』よりもマリアンヌの顔とエロイーズの身体をコラージュした裸像を描き込んだ『二十八頁』のほうがいいような気がした。だが、そのタイトルだと集客訴求力が乏しすぎるかと思い、考え直した。

 ところで、僕の映画日誌のHPには、下段に美術愛好家の映友がサイト開設当時に作ってくれたバナーが二種類あって、ひとつはラファエル前派のロセッティによる『プロセルピナ』で、もうひとつは象徴主義のモローによる『オルフェウスの首を持つトラキアの娘』から作られたものだ。だから、ラファエル前派とは一世紀ほど時代がずれる十八世紀の物語ながらも、マリアンヌを演じたノエミ・メルランの風貌がどことなくラファエル前派の画を思わせる顔立ちであるばかりか濃い緑色のドレスが印象深く、作中においてオルフェウスが重要な意味を持つ映画だったので、何やら縁のようなものを感じないでもないのだが、観後感としては、いかにも縁がなかったなぁという感じになったのが残念だった。絵画的な映画ということでは、画風は違えど同じく非常に絵画的な映画だったバリー・リンドン['75]と、僕にとっては対照的な映り方をしてきたことが、自分にとっては大いに興味深かった。
by ヤマ

'21. 4.16. あたご劇場



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