家族を守る、とは何か
 『たかが世界の終わり』(Juste La Fin Du Monde) 監督 グザヴィエ・ドラン
 『ラビング 愛という名前のふたり』(Loving) 監督 ジェフ・ニコルズ

高知新聞「第183回市民映画会 見どころ解説」
('17. 9. 6.)掲載[発行:高知新聞社]


 今回は、♪家とは深くえぐられた傷痕♪との歌詞で始まる、屈託や葛藤を抱えた兄弟妹と母親を描いた作品と、自らの手で建て築いた家に、強い絆で暮らす異人種夫婦を描いた作品という、対照的な家族の物語が並んだ。

 カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した前者『たかが世界の終わり』では、それなりの成功を手にしながらも、ある種の虚無に囚われている弟ルイ(ギャスパー・ウリエル)に対して、尋常ならざる屈託を抱えている兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)の漂わす闇が強い印象を残す。脚本・監督のグザヴィエ・ドランは前作Mommy/マミーでも、人における“居場所”の問題を浮き彫りにしていた。本作では、弟に対して執拗に「お前の居場所はここにはないのだ」と言わんばかりの強圧を繰り出すアントワーヌに、どこか怯えに近いものが浮かんでいるところが重要だ。数々の秀作に出演しているマリオン・コティヤールをはじめとする演技巧者の揃ったキャスティングが見ものの映画だ。

 後者『ラビング』は、六十年前、黒人と白人の結婚が違法だったヴァージニア州で、出既婚に踏み切ってワシントンD.C.で婚姻を挙げて帰郷し逮捕されたラビング夫妻を描いた実話ものだ。朴訥ながらブレのない白人の夫リチャード(ジョエル・エドガートン)の自負と誇り高さが強い印象を残す。前者の多弁で攻撃的なアントワーヌと、後者の寡黙で辛抱強いリチャードとの対照が痛烈だ。

 後者では、法廷闘争にも有利に働くからとメディア露出を勧める人権派弁護士に従って、積極的に取材を受ける妻ミルドレッド(ルース・ネッガ)がインタビューに対し、「嫌がらせを受けても気にしません」と答えたことに項垂れつつ、湧き上がる言葉を飲み込んでいたリチャードの姿に痺れた。都会のワシントンを逃れ、電話も通じず近所ともかなり離れた広大な土地のなかに構えた住まいで家事に従事している妻と違って、日本で言うところの左官職人として人々の輪の中に働きに出ている状況にあって異議を唱えない姿が立派だった。ライフ誌に掲載された、妻の膝枕にTVを観ながら笑う夫妻の写真の実物がエンドロールにおいて映し出され、改めてリチャードの凄さを感じさせてくれる。

 国家に対してならまだしも、黒人であれ、ユダヤ人であれ、朝鮮人であれ、中国人であれ、人種や民族に対して敵意を露にする人たちの姿が目立つようになってきている今の世の中に強い反発を覚えるとともに、本作に登場した保安官のように、人種的優性やレイシズムを唱える動機自体は間違いではないと考えている確信犯たちが今なお絶えることがないのは何故なのだろうと想わずにいられない。そういう人たちが事あるごとに口にする「守る」ということは何なのか、家族を守るということはどういうことなのかを改めて考えてみる契機になるような時宜を得た二本立てだ。
by ヤマ

17. 9. 6. 高知新聞「第183回市民映画会 見どころ解説」



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