『アルフィー』(Alfie)['66]
『パッドマン 5億人の女性を救った男』(Pad Man)['18]
監督 ルイス・ギルバート
監督 R・バールキ

 高校時分の映画部の部長から誘われた合評会の課題作の絶妙のカップリングに感心した。先に『アルフィ』を観たときには、何故これを選んだのだろうと思ったが、二つ併せて観ると、半世紀以上前のマッチョマンと現代のフェミニンなパッドマンの対照が利いていたし、欧米とアジアの対照も利いていて、御見事だった。

 先に観た『アルフィ』は、犬に始まり、犬に終わる色事師の女性遍歴を描いた半世紀以上前の作品で、ちょうど三十年前に自分たちの手で上映した天国は待ってくれる['43]を思わせるところのある映画だった。スマートでお洒落なハリウッド風味の同作に比して、シニカルで挑発的な英国趣味の本作は、いかに色事師の生き方の悲哀を描こうとも、今ではとても映画化されるのは難しいだろうと思わずにいられなかった。そしたら、マイケル・ケインの演じたアルフィーをジュード・ロウの演じたリメイク作品が今世紀に入ってなお製作されているらしく、むしろ、そちらのほうが気になった。

 本作でのアルフィは、ステディに固定されることを是としない“自由”を求める男として描かれていて、いかにも'60年代風なのだけれども、'04年のリメイク作での彼は、いわゆるセックス依存症者として描かれているのではないかという気がした。その点、マイケル・ケインのアルフィは、セックス好きというよりも、モテ男であることの確認を女性遍歴によって求める人物だったように思う。先ごろ観たばかりのアラスカ魂['60]を彷彿させるくらいに、作中で妙に念入りに描かれていた喧嘩の場面があったせいか、喧嘩は苦手だけれども男の沽券みたいなところには執着のある“マッチョなアイデンティティ”を体現している人物として描き出されているように感じられた。

 オープニング場面で、車外の犬のカップルと同様に人妻シディ(ミリセント・マーティン)とカーセックスに励み、窓ガラスを曇らせるほどの熱気で耽らせていたアルフィは、女性の気を惹くことにおいて実に如才がないばかりか誠意もない全くのプレイボーイだ。「人妻を笑わせればモノにしたも同然」と嘯きつつ、自分にぞっこんのカフェ店員ギルダ(ジュリア・フォスター)には、店の売り上げのちょろまかしを唆すようなろくでなしなのだけれども、ギルダとの間に生まれた息子をあやしたり、病院で同室になったハリーの世話は、ひどく自然体で厭わずにやってのけていたりもするところが目を惹く。

 そのハリーが貞淑と献身を自慢した妻のリリー(ヴィヴィアン・マーチャント)にまでも手を出しながら、どこにも悪意がないのが特徴で、それゆえにタチが悪いとも言えるのだけれども、女なら何とでもなると高を括っていたアルフィが、看護師や女医などとも片っ端から関係を重ね、ヒッチハイクをしていたアニー(ジェーン・アッシャー)をドライバー仲間から横取りし、更には富裕マダムのルビィ(シェリー・ウィンタース)も篭絡した挙句、いつのまにか誰からも顧みられなくなり、犬と戯れるしかなくなるという物語だった。製作当時、本作は高評価を得ていたようだけれども、アルフィがどのように受け取られていたのか興味深く思うとともに、いわゆるセックス依存症者のようには映ってこない彼の人物造形が印象深かった。

 合評会に参加した、アルフィには何の魅力も感じないという女性から、「何故、映画ではあんなにモテるのか」と問われて考えてみたが、僕には、取り敢えず選り好みのなさにあるように思えた。彼のモテ方というのは、女性のほうから寄って来るというような“惹き付け”ではなくて、攻めまくりの渉猟にあるわけで、その意味では、本当はモテ男という言い方は適切ではないのかもしれない。ただ攻め方は、実にツボを心得ていて、人妻は笑わせ、ウブな娘には親切にし、看護師や女医には弱みを見せて気を惹き、お洒落な出で立ちとスマートな振る舞いに留意するみたいなところでの立ち居の如才なさが功を奏するのだろう。

 問い掛けてくれた女性がとりわけ気に障っているように感じたアルフィの女性に対する横暴な物言いというのも、誰かれ構わずではなくて、主にギルダに対して目立っていただけのように思うのだが、ギルダに限らずある種の女性においては、そういう向かい方こそが特別感に繋がる効果を発揮するような気がする。特にSM趣味だとかいう形で取り立てたりしなくても、そういう凭れ合いはあるように思う。頭で考えてというのではなく、それこそ赤ん坊をあやすのが巧かったりするのと同じく、ある種のセンスで以て、きちんと相手の女性のツボを押さえてワンパターンではないあの手この手で口説けるから、釣果に事欠かなかったということではなかろうか。

 ただ釣果は、所詮釣果であって、体の関係は結んでも人としての関係を結んだことにはならないから、人としての繋がりを失っていくわけだ。次から次へと釣り上げ交わる行為の連続性と、関係性の連続性とは全く別物なのだけれども、その“行為の連続性”で以て己が命の連続性は揺るがないように感じていたはずのものが、そうではなかったというしっぺ返しを食らわされていたのだと思う。それを自業自得のいい気味だという風には映らないよう描いているところがあって、そこに悲哀を感じたような気がした。どこか、“男らしさ”というマッチョイムズの強迫から、本来持てる“人あしらいの巧さ”という能力の育み方を誤ってしまった男のように見えたからだろう。それを助長したのは、もちろん数多の女性たちに他ならない。


 後から観た『パッドマン』は、『アルフィ』での如才ない自己中モテ男の辿る寂しい結末とは正反対に、愚直で気の利かない男が、画期的な発明を己が利権としなかったことで、カネではなく桁外れに多くの人を得る物語だった。

 いかにもインド映画らしいベタな運びで進んでいったが、最後にラクシュミ(アクシャイ・クマール)が国連本部で行った演説が素晴らしく、これまで僕が観て来た少なからぬ映画のなかでも屈指と言えるほどで、大いに感銘を受けた。「お金を稼いでも笑うのは自分一人、いいことをすると大勢が笑う」との生き方は、ラクシュミのモデルとなった実際のパッドマンたるムルガナンダム氏の信条なのだろう。

 演説映画ということでは、チャップリンの独裁者['40]とか『スミス、都へ行く』['39]、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』['92]などの映画を彷彿させるような見事なものだったように思う。通訳を制して、たどたどしくても“ラクシュミ・イングリッシュ”などと笑わせながら自分の言葉で語ろうとする姿に、我が国の一部の国粋主義者が日本独自のものなどと言って持て囃す言霊思想に通じる感性は、決して我が国だけのものではないことを改めて思った。むしろ日本では、所信表明であれ答弁であれ、壇上で物言う姿といえば、紙かプロンプターを読んでいるだけのものしか見かけなくなってしまい、まったく言葉が響いてこないことときたら呆れ返るほかないような場面にしか出くわさなくなったから、殊更に感銘を受けたのかもしない。能弁である必要はまったくなく、むしろ訥弁であるなかに宿っている言葉の魂に心打たれた。

 そのラクシュミが「ラクシュミはナプキンを作った。パリーはラクシュミを作った。」と述べ、「1番もパリー、2番もパリー、3番もパリー…10番も11番も」と延々と続けつつ別れを告げた才媛の“妖精”パリー(ソーナム・カプール)が、父親から「なぜ行かせた?」と問われて少し涙ぐみながら答えた「ここ(都会のデリー)に残せば、つまらない男になる」もなかなかのものだった。

 それにしても、インドあたりでも地方の町では2001年においても、かほどの生理タブーが残っているのかといささか驚いた。作中で語られた1875年の仏軍衛生用品からの流用に端を発しているらしい生理用ナプキンの歴史からすれば、これが百年以上も経た新世紀の大国での出来事とは恐れ入ったが、原価の何十倍も課して販売する旧態が残っていたことのほうに驚くべきなのかもしれない。

 僕には、2001年当時の55ルピーの円換算もできなければ、物価指数の差異も分からないけれども、入り数の違いはともかく、55ルピー出さなければ入手できなかったナプキンが、1枚単位で2ルピー出せば買えるようになることのドラスティックな違いは、よく判った。そして、その価格差以上にドラスティックだったのが、パリーと名付けられた生理用品の生産販売システムだったように思う。素材自体の力に負うところも大きいのだろうが、なかなかの映画だったように思う。




*『アルフィー』
推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
https://www.facebook.com/groups/826339410798977/permalink/3201351886631039/


*『パッドマン 5億人の女性を救った男』
推薦テクスト:「ユーリズモ」より
http://yuurismo.iza-yoi.net/hobby/bolly/Padman.html
by ヤマ

'21. 1.10. DVD観賞
'21. 1.12. DVD観賞



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