『天国は待ってくれる』(Heaven Can Wait)
監督 エルンスト・ルビッチ


 ともすれば、下世話な話になりかねない男の一生を軽やかにお洒落に描いていればこそ、まさしくルビッチ作品なのであろうが、先に『生きるべきか死ぬべきか』を観てしまった者には、明らかに物足りなさを残してしまうというのが正直なところである。

 出だしは快調、幼少期は好調。誕生日を巡るプロットの繋ぎでコンパクトにヘンリーの生い立ちを綴る語り口には、確かな人間観察に裏打ちされたユーモアと洒落っ気のある会話に据わりのいい人物配置が施され、この作品が職人芸であることに異論はない。しかし、悪い子と言われて育ったヘンリーがちっともそのようには見えないし、マーサとの出会い以後は語り口のテンポの良さにも陰りが見え、洒落やユーモアが後退し、マーサへの想いが真直に語られ過ぎたきらいがある。ここに至って出だしのヘンリーの紳士ぶりと彼の口にする罪深さや地獄との縁というのは一見した意外性どころではなく、全くそぐわないものとしてしか映らなくなる。それでいて、やっぱり地獄は彼にふさわしくないというのでは何か調子が狂ってしまう。コメディだから、内省的な意味での罪深さといった部分を語るのは全くのお門違いではあるものの、女性が好きで女性にもてることが罪深いのなら、「もてる」はともかく「好き」という点において、妻に対して恬として恥じるところのない夫などいるはずもないではないか。

 もっとも、それだからこそすべからく男性は、ヘンリーのようなプレイボーイであれとルビッチは語っているのである。女道楽が罪深くはないことは、地獄の閻魔のお墨付きなのだ。しかし、世の女好きのご同輩、ほくそ笑んでばかりもいられない。閻魔大王は言う。「君は出会った女性総てに喜びと自信を与え、幸せな気持ちにした。それが地獄に行く理由になるはずがない。」

 傷や恨みを残すことなく浮き名を流し続けてこそ真のプレイボーイというならば、誰にでもなれるはずもない。その条件とは、先ず妻を心の底から愛することなのである。伴侶一人愛せないでプレイボーイとはおこがましいというわけだ。そのうえで真のプレイボーイを目指せというのだから、ルビッチの要求は手厳しい。利己優先でなれようはずがない。かといって他人の目ばかり窺っていれば、尚更なれない。真に女性を愛する心を持てばこそ、妻一人に留まるはずもないと同時に妻を損なうこともないというのである。その対極にあるのがマーサの両親である。ありあまる富みを持ち、保守的な性道徳を忠実に守ったとしても、異性を愛する心を基本的に備えないもの同士が豊かな人生を送れはしないのである。

 このことは男性の側だけではなく、女性についても同様に言えることである。しかし、世の多くの男女はともに自らの愛する力への自信のなさ故に、真のプレイボーイ/プレイガールを目指すよりも、欲求を内に抑圧して貧しく愛を守りにかかるか、欲求の赴くままに愛といさかいの繰り返しのなかに身をやつすかのいずれかであろう。そのいずれをもっても良しとはせずに、勇気をもって踏み出そうではないか、ご同輩。自信とともに絶妙のバランス感覚と抜群のセルフ・コントロールが要求されることは承知のうえで・・・。
by ヤマ

'91. 4. 6. 県民文化ホール・グリーン



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