『37セカンズ』(37 Seconds)
監督・脚本 HIKARI

 韓国映画オアシス['02]で脳性麻痺の娘コンジュを演じたムン・ソリは、障碍者ではなかったけれども、本作のユマを演じた佳山明は、実際に先天性脳性麻痺を持っているのだそうだ。アイドル並みの容姿を持つ同級生とおぼしき SAYAKA(萩原みのり)の露出と役割分担をする形で人気少女漫画『彼は猫アレルギー』を描いている漫画家なのだが、作家としての名前どころか存在すら消して、アシスタントとして創作を続けるゴーストライターに徹していたはずのものが、サイン会が開かれるほどに人気が高まってきて、自分の描いたものが世に出るだけでは飽き足らなくなってきているところから、物語が始まった。やはり生の手応えは、自身の存在をきちんと認知してもらえるところにあるというわけだ。

 人にとってのブレイクスルーというものは、ちょっとした契機と自身の踏み出し。加えて、それが引き寄せる運というものの繰返しの連鎖が果たすものであることを、ある種、爽やかに微笑ましく描き出していて、なかなか気持ちのいい作品だった。彼女にとって最も幸運な出会いは、障害者を主な顧客としている風俗嬢の舞(渡辺真起子)だったように思うけれども、ユマが最後に礼を述べに出向いた相手が、最初の契機をくれたポルノ漫画雑誌の藤本編集長(板谷由夏)のところだった場面には、そういう意味が込められていたような気がする。

 とりわけ、ユマを巡る人物関係のほぼ全てが基本的に良好な関係ばかりであることが目を惹いた。相方の SAYAKAや家庭を壊してまでユマに入れ込んだ母の恭子(神野三鈴)との間には、屈託や葛藤も見受けられ、ぶつかったりもしていたけれど、根底には良好な関係があるように感じた。それは、間違いなく、その二人こそが誰よりも自分を必要としていることを感じさせてくれていたからなのだろう。そして、同時にそれはユマにとっても、二人の存在が大きな意味を持っていることに他ならない。ユマがブレイクスルーを求めるようになるのは、ある意味、その証でもあるような気がした。

 そのうえで、ユマの巡り合う人々が歌舞伎町の客引き(渋川清彦)やデリヘルボーイのヒデ(奥野瑛太)から、幼時からのち一度も会っていないと思われる親族(尾美としのり・芋生悠)に至るまで、タチの悪い人間が一人も登場しないのに、綺麗事の表層をなぞっているような気がしてこなかったことに大いに感心した。それぞれの人物を、役者が持ち味を生かして、とてもよく演じていたからだろう。そのおかげで、障碍者の求めることを容れるにしても拒むにしても、特別扱いも差別もないフラットな向き合い方を全員がしていたように感じたのだが、その形作る世界の風通しの気持ちよさが、とても新鮮だった。

 演者のなかでは、ユマがタイから持ち帰った画帳に、ポタポタ涙を落としながら観入っていた恭子を演じていた神野三鈴が心に残った。ただ流れるのではなく、ポタポタと落ちていた涙によって、彼女が負ってきた重荷もポタポタと落とせる日が訪れていることを窺わせ、感銘を受けた。お揃いの二足の小さな靴を決して処分することなく大事にしまってきた彼女が封印していたものをようやく解放することができたのだろう。序盤でのユマとの入浴場面に、もう成人している娘への向かい方が象徴的に現れていたような気がする。ずっと抱きかかえ包み込むようにして育てて来たのに違いない。そのうえで、障碍を負って育った我が子を、経済的にも自立できる職業人として育て上げたのだから、立派なものだ。ものすごい犠牲を払うとともに、掛け替えのないものも得つつ、懸命に生きてきた人だと思った。その甲斐あって、母親からすれば警戒心の乏しさが心配の種になる程に翳りのない娘に育ったわけだから、娘から「過保護で困るんです」などと言われるくらいの過剰さを回避することができなかったとしても、致し方のないことだという気がした。今度は、娘の側から子離れ親離れの巣立ちのためのブレイクスルーを果たすのが役回りとしたものだろうと思う。だからユマにしても、屈託や葛藤を抱えぶつかりはしても、決して母親を否定などしていないように見受けられた。

 そして、子離れ親離れの巣立ちのイニシエーションとして性の問題が契機になることには、実に普遍性があって、瞠目させられた。家出した娘が遺していったものを目の当たりにしながら、思い掛けなったその訪れを恭子が受け入れる時間が得られたことも大いなる幸いだったように思う。そのうえでは、舞と彼女の得意客であるクマ(熊篠慶彦)を受け持っていた介護士の俊哉(大東駿介)が果たした役割の大きさには、当人たちの思いが及ばぬほどのものがあったような気がする。そういったことが、ふり降りてくるのが運というものだと感じた。あのタイミングで公園に捨てられていたポルノ漫画雑誌を拾ったことも運なのだが、ユマが成人漫画を描いて持ち込むという踏み出しを起こさなければ、藤本編集長から強烈な切っ掛けを与えてもらえなかったことを思うと、人の生にブレイクスルーをもたらす契機というのは、本当にどこに潜んでいることかと改めて思う。

 映画作品としての格調とインパクトで言えば、やはり『オアシス』のほうが優っているに違いないのだが、『オアシス』が観る者に与えることの難しそうな“卑近な普遍性”というものの造形を鮮やかに果たしていて、いわゆる“障碍者映画”などにはカテゴライズさせないような映画になっていた点が実に見事だった。




参照テクスト:mixi談義編集採録


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/20100401/
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.livedoor.jp/hayasinonene/archives/55087483.html
推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20200216
by ヤマ

'20.10. 5. あたご劇場



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