『37セカンズ』をめぐって
ケイケイの映画日記」:ケイケイさん
ヤマ(管理人)


2020年10月09日 23:14~2020年10月14日 18:32
ヤマ(管理人)
◎ケイケイさん、こんにちは。
 映画日記にお書きの障害はモチーフなだけで、描いている事は、誰にも通じる普遍的な事柄なのです。垣根なんか、どこにもないのよ。生き生きと変貌していくユマは、私であなた、思いっきし同感です。

 
拙日誌映画作品としての格調とインパクトで言えば、やはりオアシスのほうが優っているに違いないのだが、『オアシス』が観る者に与えることの難しそうな“卑近な普遍性”というものの造形を鮮やかに果たしていて、いわゆる“障碍者映画”などにはカテゴライズさせないような映画になっていた点が実に見事だと綴ったのは、同じ趣旨なのだけれど、なんと表現の異なることか!(笑)

このお母さんは、世間にはどう見えるのかな?
 世間は知りませんが、僕にとっては本作で最も目を惹いたのが恭子を演じた神野三鈴だったので、ケイケイさんの目に映った母親像に大いに共感を覚えました。あのポタポタ涙とお揃いの二足の小さな靴を取り出す姿で、今度は、娘の側から子離れ親離れの巣立ちのためのブレイクスルーを果たすのが役回りとしたものだという作品だったのだなと確信しました。

 また、後半、旅券はどうした?何故外国?介護士の大東駿介は、こんなに仕事休んでいいいの?とか、突っ込み満載とのことですが、前半にユマがけっこう稼いでいるというか札を数えてる場面が出てきますよね。夜遊びに散財できるだけの経済的余裕のある様子が描かれていたわけですが、タイ行きに俊哉を雇えるほどに稼いでたのかと若干驚きつつも、まぁ、サイン会が催されるほどの人気なれば、それくらい出来てもおかしくないとも思いました。サイン会に突如姿を現したユマに動揺して黙殺したことをすぐさま謝りに自宅を訪ねていたSAYAKAとの関係は、取り分も含めてイーヴンな役割分担だったのだなと思った次第です。

 いやぁ、なかなかの作品でした。こうは作れないとしたものですよねー。


(ケイケイさん)2020年10月11日 12:15
 こんにちは、お返事遅くなってすみません(詫)。
同じ趣旨なのだけれど、なんと表現の異なることか!(笑)
 激しく同意です(笑)。一見下世話に見せて、格調高く奥深い『オアシス』と、真摯に障害者の生き様を見せるのかと思いきや、こちらは一大青春譜、そして冒険譜でした。

世間は知りませんが、僕にとっては本作で最も目を惹いたのが恭子を演じた神野三鈴だったので、ケイケイさんの目に映った母親像に大いに共感を覚えました。
 賛否両論みたいですね。絶賛流行語の、毒親みたいに言われているのも、見かけました。
 ヤマさんもでしょうが、私も違うと思います(きっぱり)。ユマのあの状態で、自活をさせるのは、親として忍びないと思います。ユマだって、反骨心が芽生えるまでは、それが普通だと思っていたはずで、親が促したからって、あんな大冒険が出来なかったわけです。親は、子供の人生に与える影響は大きいですが、親が子供の人生の全てではないですから。

あのポタポタ涙とお揃いの二足の小さな靴を取り出す姿で
 思い出しただけで、涙が出てきました。あの一粒一粒流す涙が、私は彼女の今までの苦労に思えてね。
 だから号泣じゃなくて、ゆっくりと一粒ずつなんだと思いました。耐えて貯め込んでいたものが、そんなに堰を切って流れるものじゃないですから。神野三鈴の、役柄への理解の深さに感動しました。すごいですよね、この人!

タイ行きに俊哉を雇えるほどに稼いでたのかと若干驚きつつも、まぁ、サイン会が催されるほどの人気なれば、それくらい出来てもおかしくないとも思いました。
 サヤカにだいぶピンハネされていたろうけど、今ままで使い道がなかったから、確かにお金の方は貯金はあったかもですね。

取り分も含めてイーヴンな役割分担だったのだなと思った次第です。
 うーん、イーブンかなぁ。私はやっぱり、友達もいないユマを、体よく騙して操っていたと思います。
 障害者は、こうやっていいようにされる事も十分あり得る、と教えて貰いました。怪しげなのは、渡辺真紀子の方が、怪しげでしょう? 普通の男性より力は弱いわけで、ぼったくる場合もあるでしょうし。でも違った。そういう事は誰にも誰しもある事で、ここもとても「普通」だと思いました。

いやぁ、なかなかの作品でした。こうは作れないとしたものですよねー。
 観た事ないし、湧き上がる感情も、経験した事なかったです。感動とかより、すごく元気が出て楽しかった、という感じですかね? だってエンディングの電波系の曲の間、ずっと笑顔でしたから、私。
 今思いついた。感動ではなく、感激する作品です。わーい(嬉しい顔


ヤマ(管理人)2020年10月11日 17:20
 「感激」ね。なんか嬉しくなった、というニュアンスは、感動よりもありますよ。神野三鈴は、本当によく演じてましたね~。HIKARI監督の演出もなかなかのものでした。

 で、SAYAKAの件ですが、彼女は、ユマの作品を世に出した最大の功労者の一人だろうと僕は解してます。
 あれが母親の恭子の拓いた道なら、SAYAKAが介在してくる余地はあまりないはずですし、恭子からすれば、おそらくモノになるとも思えてなかったのではないかという気がします。そして、アマチュア時代からマンガ好きという接点で出会ったであろうSAYAKAは、作中でも向かい合った机で作業していたように、プロになってからはアシスタント的な役回りで、彼女自身も作品制作に当たっていたのではないでしょうか。だからこそ、編集者の池谷(宇野祥平)からユマをアシスタントとして公表することを勧められても、却ってできないのだと思いました。

 朝ドラの『エール』でも、梅(森七菜)が文学賞を受賞したときに見た目のことを言われて、かなり不本意そうにしてましたが、当時以上に今は、こういう時代ですから、SAYAKAのアイドル並みの容姿は、売れっ子作家になるうえで大きな役割を果たしたはずです。おそらく怖気づいてたであろうユマに代わって、最初に原稿を持ち込んだのがSAYAKAで、そのとき、描いたのは自分ではないと言いそびれて今に至っているのではないかと思います。そのことに乗じてそれを役割分担として提起したのは、むしろユマだったのではないかとさえ思ってます。

 映画を観て、イーヴンな役割分担だったのではないかと僕が察しているのは、上にも書いたように、サイン会に突如姿を現したユマに動揺して黙殺したことをすぐさま謝りに自宅を訪ねていたことや、その際、恭子がSAYAKAとも旧知の間柄で、よく訪ねてきているらしい感じだったこと、ユマの失踪に動揺した恭子が真っ先にSAYAKAに照会していたことなどからです。
 確かにユマは拙日誌にも綴ったように警戒心の乏しさが心配の種になる程に翳りのない娘ですが、知的障碍を負っているわけではないので、一方的に搾取されるとも思われないし、また、そのような実態があれば、恭子がそれを放置しておくとは思えませんもの。少なくとも、恭子も了解できるだけの取り分で報酬を分けていたと思いますよ。


(ケイケイさん)2020年10月11日 22:34
 サヤカがユマの作品を世に出した最大の功労者の一人だというヤマさん的見解なら、観客も憤りを感じる事無く、いい気分になれますが、これはどうかなぁ。作り手は、サヤカを明確な敵役に設定していると私は感じました。

 とっかかりは、二人の合作であったかも知れませんが、担当さんが来た時、ユマが描いた原稿を早く隠して!と言ってましたよね。そして、ユマオリジナルとして描いた作品は、サヤカ先生にそっくりなので、良い作品だけどとダメ出しだされる。こうなることは、解りきっていたはずです。

 これはゴーストライターですよね。私が想起したのは、佐村河内守と新垣隆の関係です。新垣氏も、当初は自分の作品が広く世に出れば、それで嬉しいというのが、引き受けた要因だったと思います。この観点から鑑みれば、サヤカの容姿がなくても、障碍者のユマが書いたというほうが、世間的にはインパクトがもっとあったはず。

 ヤマさんが仰るように最初に原稿を持ち込んだのがSAYAKAで、…そのことに乗じてそれを役割分担として提起したのは、むしろユマだったのなら、サヤカは、ユマのプロデューサーとして、売り込めばいいだけじゃないですかね? また書きますが、これはゴーストライトです。ついつい言いそびれてしまった、という代物ではなく、完全に悪意を持って、その後、ユマから搾取したと私は思っています。幾らでも言いくるめられますよ、ユマは世間知らずなんですから。

 それと、ユマのお母さんがサヤカ親子を観て、自分と比べて卑下するシーンがありましたが、私たちはサヤカの贅沢がユマの犠牲のうえに成り立っているのを知っているから、他の健常者親子と比べるなら痛ましいで済むのですが、サヤカだから憤りも感じます。

 サヤカがヤマさんの仰るような悪意のない子であれば、ラストの一本立ちするユマに対して、謝罪があっていいはずです。発狂したように、今後のことを憂いていただけだったですよね? 以上のことから、私はサヤカのこと、作者は「敵役」として設定していると思いました。

 また、知的障碍を負っているわけではないので、一方的に搾取されるとも思われないとのことですが、知的障害ではなくても、超箱入り娘、言い換えれば籠の鳥です。自分の世界に深く関わっているのは、母親とサヤカぐらいじゃ、何もわからないですよ。

 そのような実態があれば、恭子がそれを放置しておくとは思えませんという点では、少なくとも、恭子も了解できるだけの取り分で報酬を分けていたとは思いますよ。実態は、アシスタントだと思い込んでいますよね、恭子。だから少ない金額でも、アシスタントなら妥当だと思っているんでしょう。ユマのお母さんは、娘は自分が庇護するだけの存在で、漫画で食べていける才能があるなんて、全く思っていませんから。そういう意味では、子供を知らない。よくあるケースですね。そして母自身も、障碍者を見くびっているわけです。

 サイン会に突如姿を現したユマに動揺して黙殺したことをすぐさま謝りに自宅を訪ねていた件は、謝罪ではありません。ユマに逃げられてはいけないからです。花束を持って向かったユマに、サヤカは虫けらを見るような目で、追い払いましたよね? そこには実情がバレてしまうかもという危機感と、障碍者のユマに華やかな場所に出てきてほしくない思いがある訳です。二人がイーブンな関係なら、表向きはアシスタントなんだから、先生のサイン会に花束持って出かけるのは、普通だと思いますが。

 その後、自分の損得勘定を弾いて、ユマにへそを曲げられては、今の立場が無くなるので、ケーキと一緒に甘い言葉を囁いて懐柔に来る。利己的過ぎませんか? 私はこのシーンで猛烈に腹が立ちました。

 この件は、あまりに観方が違うので、だいぶ困惑しています。

 そしてユマのお母さんですが、私は決して賢い人ではないと思います。彼女自体、精神的に世間から隔離している状態ではないですか? 母自身、障碍者の娘を持って、著しく自己肯定感が低いんです。娘にも「あなたは障害者だから」と言い続けて育てているのだから、ユマも自己肯定感が低いです。

 恭子がSAYAKAとも旧知の間柄で、よく訪ねてきているらしい感じだったこと、ユマの失踪に動揺した恭子が真っ先にSAYAKAに照会していたことなどは、幼馴染か、元は友人関係だったからなのでしょう。でもこれが、どうしてイーブンなんですか? 元はイーブンでも、今は全く違うじゃないですか。明確にユマから搾取しているでしょう?

 板谷由夏がユマに「セックスしたことある? してからまた来て」と言いましたよね。単にセックスだけではなく、社会にまみれてみなければ、頭の良さや性格ではどうにもならない、超えられないものがあると思います。なので、世間知らずな親子は、サヤカのような性悪にとっては、赤子の手を捻るくらい、簡単に騙せたと思います。

 そしてユマのお母さんのことも、ヤマさんは過大評価していると思います。私はこのお母さん大好きですが、一切を娘に捧げる献身的な愛情は、慈愛というより猛々しく愚かだと思います。そして盲目的。大切なことは見えない。だからサヤカの本性も見抜けない。

 親が子供にしてやれる一番のことは、親が亡くなっても、生きていけるように育てることだと、私は思っています。そこは、健常者も障碍者も同じはずなのに、彼女は最初から否定しているんです。理解はできるけど、この部分はまるっきしダメですよ。だから、このお母さんが嫌いな人の感想も理解できます。

 ただ母親というのは、それが表に出るか出ないかであって、大なり小なり、子供には慈愛と毒を注いでいるんです。無意識にね。もちろん私も自覚しています。だから良い部分も悪い部分も、全部理解したうえで、私はこのお母さんは立派だと思います。母親から注がれる愛と毒を、上手く取捨選択できる子供に育てることも、大事なんだと思いますね。遅かったけど、ユマがそれをできたのは、私はやっぱり、このお母さんだったから、だと思います。


ヤマ(管理人)2020年10月12日 00:05
 ヤマさんはどのシーンから、この二人がイーブンだと想起されましたか?とのことですが、これは、既に上にも書いているように、映画を観て、イーヴンな役割分担だったのではないかと僕が察しているのは、上にも書いたように、サイン会に突如姿を現したユマに動揺して黙殺したことをすぐさま謝りに自宅を訪ねていたことや、その際、恭子がSAYAKAとも旧知の間柄で、よく訪ねてきているらしい感じだったこと、ユマの失踪に動揺した恭子が真っ先にSAYAKAに照会していたことなどからです。

 僕は、自分の映画日誌にとりわけ、ユマを巡る人物関係のほぼ全てが基本的に良好な関係ばかりであることが目を惹いた。相方の SAYAKAや家庭を壊してまでユマに入れ込んだ母の恭子(神野三鈴)との間には、屈託や葛藤も見受けられ、ぶつかったりもしていたけれど、根底には良好な関係があるように感じた。それは、間違いなく、その二人こそが誰よりも自分を必要としていることを感じさせてくれていたからなのだろう。そして、同時にそれはユマにとっても、二人の存在が大きな意味を持っていることに他ならない。ユマがブレイクスルーを求めるようになるのは、ある意味、その証でもあるような気がした。
 そのうえで、ユマの巡り合う人々が歌舞伎町の客引き(渋川清彦)やデリヘルボーイのヒデ(奥野瑛太)から、幼時からのち一度も会っていないと思われる親族(尾美としのり・芋生悠)に至るまで、タチの悪い人間が一人も登場しないのに、綺麗事の表層をなぞっているような気がしてこなかったことに大いに感心した。それぞれの人物を、役者が持ち味を生かして、とてもよく演じていたからだろう。そのおかげで、障碍者の求めることを容れるにしても拒むにしても、特別扱いも差別もないフラットな向き合い方を全員がしていたように感じたのだが、その形作る世界の風通しの気持ちよさが、とても新鮮だった。
と書いているように、本作にはタチの悪い人間が一人も登場しないのに、空々しく感じられないところが気に入ったので、悪役などというものを振っているという受け止めをしていませんでした。

 まぁ、それぞれに受け取るものが違うのは、映画に限らず、ありがちな話です。まして直接的に描いていなければ、尚のこと。性悪女のSAYAKAにいとも簡単に騙されていた愚かな母娘ですか。なるほどね。障碍を負っていれば、社会にまみれることなどないはずということなのかな。

 母親に関してケイケイさんがそこは、健常者も障碍者も同じはずなのに、彼女は最初から否定しているというふうに見えたのは、どこの場面からですか? お酒を飲んできたことや夜遊びに憤慨してた部分じゃないですよね。だとすれば、どこなんだろう??


(ケイケイさん)2020年10月12日 00:50
 性悪女のSAYAKAにいとも簡単に騙されていた愚かな母娘じゃなくて、愚かなのは母だけですよ。ユマは、サヤカに対して違和感は持っていたはずです。でも彼女から、貴重な世間の風が流れてくるはずで、「信じたい」ではなかったかと思います。

 障碍を負っていれば、社会にまみれることなどないはずということなのかなとの問いに対しては、「いいえ、この親子が」です。渡辺真紀子のお客さんのクマさんなんか、世間にまみれていますよね。この人をモチーフにした映画もあります。

 ユマの世話と仕事をしていたら、物理的に時間が取れないと思います。でも素人?の劇団に入っていたのじゃないかな?お母さん。セリフの練習をしていたので。それも仕事をしないと生活出来ないので、時間が取れないという描写があったような記憶があります。

 羽ばたきたいけど、自分だけ羽ばたくのは、罪悪感があったと思いますね、お母さん。サヤカの元でアシスタントする娘は、好きなものに打ち込んでいるように感じて、嬉しかったんだと思います。母的には「正しい障碍者の生活」だったんじゃないかな? 自分の理想とする娘の「正しい生活」には、お酒飲んだりカラオケしたりにはないので、激怒したんでしょう。

 次に母親に関して…「彼女は最初から否定している」というふうに見えたのは、どこからか?というのは、娘のユマが、何もしていないことからです。何も描かれないから、そうだと思いました。障害者でも簡単な家事を手伝わせるなり、一人でお風呂に入る訓練をするなり何もなく、この子は私がいないと何も出来ないと、決めつけているからです。サヤカから貰うアルバイト代は、多分数万円のはずで(お札の感じがそうだった)、それだけでは自立した生活は出来ないはずなのに、母親的には、障碍者の娘に「好きなことを“させている”」満足感があったように感じました。

 急に死ぬこと以外にも、入院するなり年老いていくなり、いずれはユマの世話が出来なくなるはずです。その時、困りますよね。生活資金は、生保なり障害者年金なりで何とかなるにしろ、訪問介護も全くなかったし、ユマの今後をどう考えているのかと、ずっと思っていました。思い浮かばないのじゃなくて、私には母親が、手を貸してくれる社会資源を拒絶しているように思えました。誰にも世話にならない介護をすることで、自己を奮い立たせ確立していったのじゃないでしょうか?

 助けて下さいは、決して恥ではないし、むしろ自分一人でユマの介護をすることは、娘の自立を妨げるのに、気づいていないのでしょう。「世間の風」ではなく「この手の風」は普通は、同じ立場の親や福祉関係から運ばれますが、一切出てこなかったですよね。以上の理由からです。


ヤマ(管理人)2020年10月12日 19:38
 確かに「愚か」とは書いてませんでしたね。失礼しました。二人は、世間知らずな親子で、自己肯定感の低い母娘だと映ってたんですよね。僕は、取り立てて世間知らずとは思わなかったし、自己肯定感が低いどころか、母娘ともそれなりに自負心を持っている二人だと受け止めていました。

 ふ~む…。確かに、困惑するでしょうなぁ。僕とは映り方がぜんぜん違ってます。まぁ、どっちが正解か、などという代物ではないので、ほぉ~と驚いてます(笑)。それでも、描いている事は、誰にも通じる普遍的な事柄なのです。垣根なんか、どこにもないのよ。生き生きと変貌していくユマは、私であなたってとこは、ほぼ同じで、いやぁ、映画って本当に面白いというか興味深いですな。

 母親が最初から否定していると観たのは、娘のユマが何もしていないことからで、何も描かれないから、そうだと思いましたということなのですね。なるほどね。
 まぁでも、まさにケイケイさんが私が衝撃を受けたのは、ユマの日常を描き、観る人に障害者への理解や共感を求める内容だと思っていたら、このお話は遅かりし反抗期を迎え、自分の殻を破るため、大冒険をする女子のお話でした。何これ?(笑)。と書いているように、本作はユマの日常を描き、観る人に障害者への理解や共感を求めるつもりで撮った作品じゃないんだから、ユマに簡単な家事を手伝わせたり、一人でお風呂に入る訓練を描いたりはしませんよね。そういうとこに時間を割いたら、別な映画になっちゃいますもん。私には母親が、手を貸してくれる社会資源を拒絶しているように思えましたというのも、そういうところが「何も描かれてなかったから」ということですかね。なるほどねぇ。

 映画のなかで何を描き、何を割愛するか、時間芸術とも言うべき映画において、フィルムに焼き付ける時間について、どの部分を取るのかということは、主題にもスタイルにも直結するたいへん重要なもので、だからこそ、行間に何を読み取り想像するかが、観る側にとっても醍醐味になるわけですが、今回、僕とケイケイさんとでは、そこのところがすっかり違っていたということですねー。なかなか興味深いお話でした(礼)。


(ケイケイさん)2020年10月14日 18:32
 そうです、そうです、勿論どちらか正解だとかのことはないです。
 でも今回ほど、ヤマさんとお話していて、びっくりしたことはありませんでした(笑)。

 本作は「ユマの日常を描き、観る人に障害者への理解や共感を求める」つもりで撮った作品じゃないんだから、ユマに簡単な家事を手伝わせたり、一人でお風呂に入る訓練を描いたりはしませんよね。そういうとこに時間を割いたら、別な映画になっちゃいますもん。というのは、言われれば、そうですね。

 精神科に勤めていたとき、職員さんが福祉を必要とする人(精神科は福祉の側面も強い)は、社会資源に繋がらないと、救われ難いと言われたのが、頭の中心にずっとあって、上記のような感想になった次第です。このことは、適用できそうだと思う人には、必ず伝えています。今のところ、喜ばれてます(笑)。

 こちらこそ、ありがとうございました。
by ヤマ

2020年10月09日(金)23:14~2020年10月14日 18:32



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