『ドロステのはてで僕ら』
監督 山口淳太

 ヨーロッパ企画として初めて劇団全員で取り組むオリジナル長編映画だとのことだが、サマータイムマシンブルース舞台版・映画版上映会を二年前に観たときに“次どう来るかを愉しみつつも、少々くどく感じる作劇”と記した上田誠の作風を、ドロステ効果などというまさしく上田好みのネタで70分作品にしていることに驚き、どんな映画になっているのだろうと足を運んだ。

 そしたら、巧みな構成と編集でカメラを止めるな!を彷彿させてくれる映画で、「合成を一切使わない上、全編長回し撮影でタイムトリップを映像化」との監督・撮影・編集を担った山口淳太に大いに感心した。ワンカット撮影風に編集しているものが、それを果たすうえでも、モニターに映る2分前の過去と2分後の未来を、予め撮っておかないといけないのは自明なのだが、モニターに映る部分をモニターの中ではなく演じる場面も必要なわけで、その整合を取るのはさぞかし大変だったろうと思ったら、案の定、映画を観終わった人だけにとスクリーンで示されたパスワードで閲覧できるネット上に公開された18分のメイキングでそのあたりが興味深く示されていた。

 だが、成程そうだったのか、と種明かしをする本編とも言うべきメイキング劇の部分に当たる後半のためにだけ前半のゾンビ映画が存在していたような『カメラを止めるな!』と違って、映画本編の部分できちんと満足させてくれる点では、少々反則的手法の『カメラを止めるな』よりもむしろ運命じゃない人に通じていて、しかも後半になっての成程感などというものを要しない最初からの先行きの読めない運びの上手さによって、よくできた作品になっているように感じた。

 そして、TVドラマ『JIN-仁-』の南方(大沢たかお)や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティ(マイケル・J・フォックス)のようにタイム・パラドックスを恐れる必要のなさそうなコミヤ(石田剛太)やアヤ(藤谷理子)たちが2分後の未来として自分たちが観たものに言動を合わせようとするさまが、訳も判らずに決められたことに従わずにいられない日本人気質を露わにしていて、カトウ(土佐和成)が高々と両腕で丸印を掲げたエピソードが可笑しく利いていた。奇しくも同志社大学の社会心理学の研究チームが新型コロナ禍にある現今の日本人のマスク着用動機に注目して調査したところ、自他を含めた感染防止が動機になっている者がほぼ0だとの結果を専門誌に発表したという新聞記事が目に留まった。「やりすぎると窮屈な監視社会になる」と注意を促しているらしい。

 だからこそ、彼がメグミ(朝倉あき)の元に向かったのが、予め定められていた行動として描かれてないところが気持ちよく、そのうえでオザワ(酒井善史)の出した訳の分からない指示をきちんと回収しているところに感心した。ガチャガチャの景品にはかなり無理もあるのだが、無理なギャップゆえに却って可笑しい奏功を果たしていた気がする。

 また、未来など知れば、濡れ手で粟の金儲けのことしか考えないのが人間だとしたうえで、先のことなど知りたくないと“見せられた未来に縛られなかった天邪鬼の二人”に訪れた幾つ目かの2分後以降となるエンディングが、なかなかいい感じのヲタク感に包まれていて気に入った。二人が未来を知ることを拒んだ理由は、そのように高尚な考えによるものではなく、ノストラダムスの大予言や恋人だった男の言ったことといった別事だったりするところが、いかにもヨーロッパ企画の作品らしくていい。

 それにしても、エンドロールに、高知県立県民文化ホールとシネマ四国のクレジットが出て来るとは思いがけず、大いに驚いた。公開が始まっているのに、両者から何の告知もされていないのは何故だろう。もしかすると、エンドロールに出てくることを知らなかったりするのかもしれない。
by ヤマ

'20. 8.10. TOHOシネマズ9


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