『MOTHER マザー』
監督 大森立嗣

 四日前に観た文学座公演大空の虹を見ると 私の心は躍るに続き、またしても、先ごろ観たばかりの映画『家族を想うとき』['19]の原題「Sorry We Missed You」を想起させられる作品だった。

 十七歳の周平(奥平大兼)が重大事件を起こす前に、なぜセイフティネットが機能しなかったのかというような視点で騒ぎ立てるのが、マスメディアの常なのだが、そういった目線に対する異議申し立ての意志が決然と窺える作り手に共感を覚えた。

 舐めるようにして育ててきた母親たる自分が息子をどう育てようが勝手だと主張する秋子(長澤まさみ)の言葉は、自己防衛のための抗弁だから、必ずしも本心とは限らないが、それこそ冒頭、幼い周平(郡司翔)の傷ついた脛に滲む血をまさに舐め取っていた時分の秋子は、プールでの飛び込み禁止のルールを無視したり、仕事を途中で投げ出しフケてくる規範性の乏しさはあっても、少なくとも後年ほどの自堕落さは見せていなかったように思う。何が原因の離婚だったのかは描かれていなかったが、彼女の転落はそこから始まり、そして、ついぞ歯止めがかからないまま、後に「共依存」などと論評されてしまう形でひたすら自堕落へと向かっていったのだろう。

 そこのところに家族を想うとき』を観たときの映画日誌に「どうにもできない借金で縛り、夫としての、父親としての、労働者としての、人の誇りというものをとことん傷つけて働かせる、もはや収奪資本主義と呼ぶほかない、強者のやりたい放題を自由などと呼ぶ“新自由主義”なるものへの憤慨を禁じえなかった。」に通じるものを感じないではいられなかった。本作中で福祉事務所の職員と思しき人物が訊ねていた「なぜ生活保護を止めたの?」も離婚原因同様に明らかにされていなかったが、『家族を想うとき』と同じ作り手によるわたしは、ダニエル・ブレイク['16]に描かれていたような公的制度から受ける屈辱というものが色濃く作用していたような気がする。妹との比較のなかで、家族からも得られなかったと感じていると思しき秋子の「とことん自尊感情を痛めつけられてきた者ならではの過敏と攻撃性」を、長澤まさみが痛々しくも実によく演じていて驚かされた。確かに酷い母親に違いないが、ただひたすら鬼母としては造形していないところが出色だと思う。

 そして、彼女が、ホストに入れ込んだり、パチンコに依存したりすることにしても、それで免罪されることではないながらも、真因はそこにあったような気がする。それと同時に、そういった人々に付け込む形で資本の論理がそういう業界を育んでいることに対して、割り切れない思いが募っても来る。

 また、ときにDVまで振るう本当にろくでもないRyo(阿部サダヲ)を秋子が見切れないのは、彼女に「助けてくれ」と言ってくる彼だけが、身勝手ではあっても、彼女の自尊感情を傷つける真似をしてこなかった点において、施しや親切を与えてはくれるけれども自尊感情を奪ってくる人たちよりも、自分にとって必要な存在に思えていたからなのだろう。彼とても、残り物の刺身を袋に入れて持ち帰り「カニもあるぞ」と浜辺で分け合って食する一面を見せていたように、ある意味、秋子と同じ境遇にあったような気がする。

 そういったことにきちんと気付いていたのが本作の周平で、だからこそ全部を一人で背負ったのだろう。誰よりも母親の側にいて、その痛みも喜びもダメさも言葉にできないままに感知しているからこそ、かくも酷な生育を負っても、「お母さんが好きなんです、ダメなんですかね?」と言えるのだと思った。人の存在価値と生き方をダメかどうかで問えば、自分など生まれて来た時からずっとダメで小学校も出ていないと言う周平に、しっかり返せる言葉を持つ大人は殆どいないように思った。

 一つ大きな疑問があって、懲役12年の実刑を控訴しなかった周平が全部を一人で背負ったのなら、秋子の懲役2年半、執行猶予3年の罪状は、何だったのだろう。もし、一部の被害届のあった事案に係る窃盗罪の累犯によるものならば、その旨、付言しておいてほしいように感じた。




推薦テクスト:「Filmarks」より
https://filmarks.com/movies/88789/reviews/102744450
by ヤマ

'20. 7.12. TOHOシネマズ4


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