『転校生』['82]
監督 大林宣彦

 記憶から言っても観賞記録からしても、きちんと観るのは初めてだという気がするが、思いのほか面白かった。何と言っても、斉藤一美と彼女の身体に転移した一夫を演じた小林聡美が素晴らしかった。

 観賞後の談義で出た、入れ替わってからのキャラクターに連続性が感じられないことが気になったとの指摘が面白かった。一夫の身体(尾美としのり)に入る前の一美は、あれほど女々しくなく、一美の身体になる前の一夫は、あれほど雄々しくなかったから、妙に不自然に思ったとのこと。僕もまさに同じことを感じていたので、我が意を得たりだった。

 だが、僕のほうは観ているうちに、これは、日本で暮らしていると自分が日本人であることを余り意識しないどころか、自分はいわゆる日本人的ではないほうだとまで感じていた人が、異国暮らしをするなかで自分が日本人であることを強く意識するようになるといった話を聞くのと同じことが、一美にも一夫にも起こっているようだというふうに映ってきていた。一夫は身体が女になってしまっているからこそ、自分は本当は男なんだと意識するから、男であることに無意識でいられた時に比して過剰に男性的になるし、一美には逆のことが同じような形で起こるというわけだ。そのうえでなお興味深いのが、違和感を感じていたはずの身体に対して次第に馴染み、もう一つの自分の身体でもあるような意識を持ち始めていたことだった。だからこそ、ラストの「さよなら、俺」「さよなら、私」の台詞になるわけで、意表を突く設定のなかで、心と体の関係をかなりデリケートに捉えているように感じた。

 一緒に観賞した六人のなかからは、「この映画をむかし観たときは、まだLGBTという言葉はなかったように思うけれども、いまLGBTの人がこの映画を観ると、どんなふうに思うのだろうか」という意見も出たが、六人のなかに「それなら…」と言える者がいなくて、回答が示されなかったのが残念。僕も是非とも伺いたいと思う。

 身体が入れ替わったことで人格的変容をも来していたのが不自然に感じられたと話していた人が併せて指摘していたように、男にも女にも、いわゆる男性性・女性性と呼ばれている性質の両方ともが備わっているというのは、かねてより僕も思っていることだ。別に身体が入れ替わらなくても、女々しい男もいれば、雄々しい女もいるわけだし、実のところ、底の部分では男のほうが総じて女々しく、女のほうが総じて雄々しいと感じられもするなかにあって、彼の述べていた「性差は、さほど本質的、根本的なものではない」というのは、人間観としてもっともな意見だと僕も思う。だから、いわゆる性差というものは決定的なものではないと思う一方で、両性ともに巣くう特性としての両者の違いについては、かなり大きなものがあるとも感じているから、二十代の時分に「男も女も、性質のベーシックな部分は両性それぞれに即したものであるなか、個性として特徴だった部分では異性性を発揮している人のほうが魅力的だと思う。男性性が特徴だっている男は何とも暑苦しく、女性性の顕著な女性は妙に鬱陶しいけれども、女性性を特徴的に備えた男には深みがあって、男性性を特徴的に備えた女はかっこいい気がする。」と述べて大いに感心された覚えがある。

 一美に転移した一夫は「女の身体を持った男」であって「女性性を特徴的に備えた男」ではなく、一夫に転移した一美は「男の身体を持った女」であって「男性性を特徴的に備えた女」ではなかったけれども、そのことによって改めて男性性・女性性というのは、身体性が表現しているものではないことが明らかになっていたように思う。そして、本作には、「身体の入れ替わり=超セックス」のようなイメージで捉えた形での“身体性の共有による他者理解と自己拡張”というものが投影されているように感じられた。

 そのうえで、ジェンダーアイデンティティに違和感を覚えつつも知らず知らずのうちに馴染んでいっていた“身体の記憶”という部分については、本作に先立つ瞳の中の訪問者['77]やアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の21グラム['03]などに描かれていた臓器移植を扱った作品群にも窺われるように、なかなか侮れないものが本作にはあるようにも感じた。

 ただ同時に僕は、本作のそういった部分について、実は大林監督自身はあまり意識せずに撮っているなかでの「宿り」だったのではないかと感じている。それも含めての作り手としての力量ではあるのだが、もし、大林監督がそこのところを観念的にも強く意識していたら、もっと能書きめいた語り口で身体性とジェンダー論のようなところを大いに語ってしまったのではないかという気がして仕方がない。シンプルに入れ替わりもの的な可笑しさ面白さを追求したなかでの「宿り」となったことが功を奏しているのではなかろうか。そう思うのは、僕が最も興味深く観た“身体性とジェンダー論”の部分には、コミカルなネタの演出とは違って、いかにも大林作品的なあざとさやわざとらしさが、些かも感じられなかったからだ。

 八年前にスクリーン観賞した時をかける少女['83]ともども尾道三部作を構成している『さびしんぼう』['85]をきちんとスクリーン観賞してみたくなった。
by ヤマ

'20. 6. 4. 高知伊勢崎キリスト教会


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