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『弥生、三月 -君を愛した30年-』 | |||||
監督・脚本 遊川和彦
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僕を含めて観客わずか2名。折しも「高知のコロナウイルス感染者12人、全員が退院」と報じられた日なのに、かつてないほどに閑散としていた。テレビの影響力というのは、ネット社会と言われるようになって久しい今でも絶大なのだと思わずにいられない。東京中心のキー局が新型コロナ・ウィルスのエピデミックによるアウトブレイクを懸念する放送を繰り返し、首都圏での外出自粛を訴え続けているのを観れば、そりゃ高知にいても気が削がれるということなのだろう。 映画には、思いのほか沁み入ってくるものがあって驚いた。僕は31日生まれではないけれども、同じ三月生まれであるばかりか、弥生(波留)、サンタ(成田凌)はちょうど一回り下の同じ戌年になることもあって、二人の16歳の春から50歳の春までを追った三十余年に及ぶ縁を辿りながら、味わい深い感慨を覚えた。 山太こと山田太郎が息子の歩(岡田健史)に「人生はタイミングだ」と零し、息子から「実感こもっているなぁ」と言われていたことへの想いは、むろん僕のなかにもあって大いに触発されたと同時に、人の存在と言葉が残した記憶の重みについても、いろいろ呼び起こされるものがあった。 そして、親友さくら(杉咲花)のエイズ発症と若過ぎる死が二人の人生に遺したものの大きさを是非も無きこととして感慨深く観た。もちろん僕は、弥生ほどに真っ直ぐではないけれども、自分の意思を表明することに躊躇するのが嫌いなほうだから、『64-ロクヨン-前後編』の映画日誌にも記したように、若かりし頃に「きみは非常に優秀なんだけど、自分は汚れようとしないところが限界だね。」などと所属の課長から言われたりもしてきた。さくらが弥生に懸念したような苦労には見舞われることなく、ずっと自分流で過ごしてくることができたけれども、その幸運を改めて思った。 それにしても、本作が製作されていたときには、まだ新型コロナ・ウィルス禍は訪れていなかったはずだけれども、エイズ感染発症に見舞われた被害者が受ける差別と排除、フクシマ放射能禍に見舞われた被害者が受ける差別と排除への言及を観ながら、現今の新型コロナ・ウィルスの感染者のことを思わずにいられなかった。 また、弥生を演じた波留に大いに魅了された。高校生を演じて違和感を覚えさせない清涼感と併せ、3.11震災で伴侶を失い前夜の顛末ともども深く傷みやつれた後の四十路女性を演じて、相応の老け方を醸し出していたことに感心した。さればこそ、三十年前のさくらへのキスと変わらぬインパクトで歩の教室を震わせて、太郎を瞠目させた弥生の啖呵が心を打つのだと思う。人の生において大切なものとは何なのかに想いを馳せさせてくれる。そして、この啖呵を発したことによって初めて弥生自身もまた、ようやく再生を得たのではないかと思った。 こういう作品を観るにつけ、デキ婚【太郎】や不貞【弥生】といったことに表層的な非難を浴びせることの不見識を思わずにいられない。人の生を測る物差しは浅薄な“是非”ではなく“応分”だと改めて思う。その意味では、二人ともさくらが願ったとおり、十代の時と変わらぬ“狡さと姑息さの微塵もない態度”で人生に対して臨んでいたように思う。その狡さと姑息を以て利口とする輩が大手を振ってのさばり味を占めていることがあまりに目につくようになった当世なればこそ、本作の少々時代がかった古典的なキャラクターの擦れ違い物語が沁みてくるのかもしれない。そして、さくら、弥生、太郎それぞれが抱えていたような“引け目”というものの醸し出すものに対して、若い時分には懐疑と反発を覚えていたのに、むしろ奥床しさすら感じるようになっていることに気づかされた。 前作『恋妻家宮本』を観たとき「むかし何ぞのように「やさしさ」なるものがもてはやされていた時代に、天邪鬼の僕は「やさし~」という形容詞をとても嫌っていただけに、自分の反応に驚いた」と綴ったことに重なるものがあって、妙に気になる作り手になったような気がする。 また、三十余年のうちから取り出した三月の数日による人生の描出の含蓄にも唸らされた。さくらの墓石と桜木を挟んでサンタと弥生が相まみえることなく交わす邂逅場面の対照や、時と場所と人を変えて繰り返されるバスの追走、三人の抱えた引け目の描き方、人が人に抱く根深いところでの信頼感の描出などが、実に巧みで美しかったように思う。 | |||||
by ヤマ '20. 3.26. TOHOシネマズ4 | |||||
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