『スターリンの葬送狂騒曲』(The Death of Stalin)['17]
監督 アーマンド・イアヌッチ

 大林宣彦作品で印象深いベヒシュタインのピアノ演奏で始まる本作は、世界の大国が強権的な指導者のもと、国家主義による独裁の道を辿り始めていた2017年に作られていることが、大いに目を惹いた。中国・ロシアしかり、アメリカしかり、といった状況に、今こそスターリンをとなったのではなかろうか。

 1953年にスターリン( エイドリアン・マクラフリン)がクレムリンで倒れたときに、医師に診せようにもまともな医師は皆、粛清されていて、残っているのが三流か新米か引退組しかいなくて、側近たちが慌てる図というのが史実か否かはともかく、なかなか象徴的だったように思う。医師のみならず政治家たちにおいても、粛清を潜り抜けて残っている側近たちが本当にろくでなしであることが、いかにもイギリス映画らしい毒っ気とブラック・ユーモアで描かれていて、感心した。

 警察権力を牛耳る好色サディストの剛腕ベリヤ(サイモン・ラッセル・ビール)もさることながら、ジューコフ元帥(ジェイソン・アイザックス)率いる軍部を取り込んで、ベリヤを出し抜くフルシチョフ( スティーヴ・ブシェミ)の狡猾さに辟易とした。エンドクレジットで彼もまたブレジネフに追いやられたと記されていたが、まったく権力争いほどに醜悪な争いはないと改めて思う。

 それにしても、独裁者がナンバー2には木偶の坊を据えて、己が身を脅かさないようにするというのは古今東西の常であるとしても、ベリヤの担ぐ神輿に載ったマレンコフ(ジェフリー・タンバー)の器量の無さには、全く呆れるほどのものがあり、スターリンを真似て少女との撮影に執心する顛末の示していた空疎さには恐れ入った。矜持の欠片もない蝙蝠さながらのモロトフ外相(マイケル・ペイリン)の小心・無定見も含め、なかなか辛辣な描出ぶりだったように思う。誰もが国家・人民の暮らしなど、全く眼中になく、ひたすら己が保身と野心の鬩ぎ合いのなか醜悪極まりない権力争いに終始していたように思う。スターリンの恐怖政治が作り出したものは、結局それだったということなのだろう。今また世界各国でスターリンもどきを生み出しつつあることへの警戒が広がらないのが無念でならないと改めて思った。

 それはともかく、僕がネットを始めて程なくして数々の映画好きに巡り合った頃、特に女性たちの間でヘンに持て囃されていたような覚えのあるスティーヴ・ブシェミを久しぶりに観たような気がした。最初は気づかずにいたのだが、「もしかして、このフルシチョフはブシェミ?」と思ってエンドロールに注目していたら、やはりそうだった。何だか久しぶりに観たような気がする。また、『フルスタリョフ、車を!』['98]ならぬ「フルスタリョフ、列車を!」との台詞がベリヤから発せられたことで、未見の宿題映画のことを思い出し、観てみたいとの思いを新たにした。

by ヤマ

'20.11.14. BSプレミアム録画



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