『レ・ミゼラブル』(Les Miserables)
監督・脚本 ラジ・リ

 これまでに『レ・ミゼラブル』と題する映画は、クロード・ルルーシュ監督作['95]、ビレ・アウグスト監督作['98]、トム・フーパー監督作['12]をスクリーンで観賞してきているが、本作はヴィクトル・ユゴーの小説の映画化作品ではなく、赴任してきたばかりの警官ステファン(ダミアン・ボナール)が、小説『レ・ミゼラブル』の舞台の一つになったコゼットの街だと言って、同僚から「インテリさん」と揶揄われていたモンフェルメイユを舞台に現代の「レ・ミゼラブル」を活写した作品だった。小説から引用された友よよく覚えておけ、悪い草も悪い人間もない、いるのは悪い耕作者だけだ…との最後のクレジットを観ながら考えていた、映画に描かれていたイッサ(イッサ・ペリカ)の怒りとグワダ(シャブリル・ゾンガ)の苛立ちこそは、その二人と同じく「モンフェルメイユで生まれ育ち、現在もその地に暮らす」とチラシに記されていたラジ・リ監督自身の内にあるものなのだろうと思わずにいられなかった。

 自動車警ら隊チームのリーダーであるクリス(アレクシス・マネンティ)によれば、売春相場が10~20ユーロ(約1500~3000円)で、フェラが2ユーロ(300円くらい)だというモンフェルメイユで、窃盗や非行を繰り返して幾度となく警察の厄介になっていたと思しき少年イッサに向けて至近距離でゴム弾を撃ってしまったことについて、「銃の構造から誤射では起こらないことを俺は知っている」と同僚のステファンから理由を問われて「わからない…ただ苛立っていた…」と答えていた“グワダの苛立ち”というのは、彼の人種や生まれ育った居住地からして恐らくはイッサと同じような差別と不遇を受けて育っていればこそ、そのことへの憤りを騒動(ワールドカップ優勝騒ぎであれ、抵抗にかこつけた暴動であれ)や犯罪で憂さ晴らしをすることでは変わらないどころか、ますます悪化していくことを身に染みて知っていることによるものなのだろう。ある意味、同胞と言える者たちがしばしば露わにしている愚かさに対して抱かずにいられないでいるものが根っこにあるような気がした。

 イッサが爆発させた怒りというのは、介抱してくれた警察官ステファンの言葉が仮に慰めによるものであったとしても、顔が変形するほどの直撃弾を浴びせたくせに「治ると思うから」で済まされ、元はと言えば自身の犯した子供ライオンの窃盗のせいだったにせよ、サーカス団長から衆人環視のなか失禁してしまう屈辱を晒させられたことに対して何の咎めもないまま見過ごした警察や、犯罪多発地区の闇“市長”を自認しているくせに、よそ者のロマ人のサーカス団長から受けた仕打ちに対抗してくれないどころか、はなから引き渡しに手を貸した地元の顔役(スティーヴ・ティアンチュー)といった大人たちの欺瞞に対するものだったように思う。

 ラジ・リの描いたモンフェルメイユにおいては、大人の欺瞞に対する悪童たちの爆発だったわけだが、結局のところ、グワダによる発砲動画の拡散により懸念された暴動勃発さえ防止できて既得権益さえ脅かされなければ、イッサの自尊心が粉々に砕かれようが、バズ(アル=ハサン・リ)の“売春相場からすれば超高級品となるドローン”が壁に投げつけられて破壊されようが、何の関心も示さない大人たちに託して、社会的弱者たる貧困被差別層と彼らの犠牲のうえに胡坐をかいている既得権層というものを象徴させているように感じた。そして、怒りを爆発させた少年たちからすれば、本作においては精一杯の良識を体現している存在として配されていたと思しき、イスラム勢力のリーダー的存在のケバブ屋の主人(アルマミ・カヌーテ)や彼との交渉に当たったステファンも含めて、同じ穴の狢でしかない形になっていたところが痛烈だったように思う。

 そのうえで、警察官たちについては、チームリーダーのクリスをも含めて、本作のような事件を扱った作品にありがちな悪徳警官一辺倒には誰一人描いていないところが目を惹くとともに、彼らの従事する現場の過酷さがよく描かれていたように思う。まさに「悪い草も悪い人間もない、あるのは悪い耕作者による悲惨な耕地だけ」というわけだ。むしろ、殺傷銃器を使用しない“犯罪防止班”であるがゆえに却って、犯罪多発地区の核心部分にも日常的に足を踏み入れることができている面もあるように描かれていた点に唸らされた。住民に対して「俺が法律だ!」などと威嚇するクリスには、二年余り前に観たデトロイト['17]の警官フィルを彷彿させるようなところがあるのだが、そのクリスが発砲するのではないところが重要で、彼はむしろグワダの暴挙に動転しているように描かれていた。仕事の現場で見せる振る舞いとは違う、二人のまだ幼い娘の待つ家庭でのクリスの姿や、自分のしでかしてしまったことに動揺して母親の前で泣いていたグワダの寸描が効いているように思う。

 感心させられたのは、拡散動画が引き起こす暴動という今日的な鍵が鮮やかに提示されていた同時代性だった。アメリカでの本年のBLM運動における暴動の勃発にも、この虐待現場の動画拡散というものが大きく作用していたことから、改めて生々しさを感じないではいられなかった。それと同時に、メディアによって伝えられる事実というものが、いかに断片的なものでしかないことをも同時に描き出していたように思う。

 待ち伏せた警ら隊チームを襲撃してビルに誘い込み、少年たちが追い詰めた最後の場面での、火炎瓶を手にしたイッサと彼に対して銃を向けて対峙したステファンの一触即発の緊張感漲る時間の後、ステファンがふっと構えを緩めたことをイッサが見止めたタイミングでブラックアウトしたエンディングが後を引き、作り手の思う壺に嵌ってしまった。イッサが火炎瓶を投げるか投げないかが、両方あるように思えるタイミングでカットしてあったような気がして悩ましかったのだ。投げないとすれば、衆人環視のなかで屈辱を味わったときに、ステファンがライオンに向けて銃を構えてサーカス団長を糾弾していたことを思い出すか否かに掛かっていると思った。

 映画の運びからすれば、予め油を浴びせかけていたようにはなかったことから、彼が火炎瓶を投げたにしても投げなかったにしても、直撃さえ避ければ、それでステファンが死ぬようなことはなく、火傷をして仮に重症を負ったとしても、イッサが顔面に受けた負傷と同様に「治ると思うから」と言える範囲で収まるような気がした。ただ、その後、ステファンが“犯罪防止班”の仕事を続けられるかどうかに関しては、火炎瓶が投げられたか否かで、かなり違ってくるように思う。動画記録の入ったバズのSDカードをグワダに渡した際に「為すべきことを成せ」との言葉とともに、独り者と思しき彼に「子供はいいぞ」と語っていたステファンは、同業の妻の転勤によって子供に会える時間が乏しくなるからと異動を希望して赴任してきたほどの子供好きだったから、イッサがライオンの檻で恐怖に竦んでいる姿を観るに忍びなかったのだろう。だが、その子供に対して選りによって自分が銃を向ける羽目になったわけだから、それによって掛けた制止の効いた厳しい対峙の時間の後、構えを緩めることで場が収まったなら、この事件に怯んで現場を去ることはないように思うが、自分が構えを緩めてしまったことがイッサに隙を与える形になるという見誤りになっては、少年たちに向かう自信も勇気もなくしてしまうような気がした。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/20092101/
推薦テクスト:「カストール爺の生活と意見」より
http://pepecastor.blogspot.com/2019/11/blog-post.html
by ヤマ

'20. 9.20. あたご劇場



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