『デトロイト』(Detroit)
監督 キャスリン・ビグロー

 近年の白人警官による黒人射殺事件が引き金になって撮られたであろう本作の、五十年前の事件とは思えない生々しさにたじろいだ。そして思わず、沖縄に派遣された大阪府警機動隊員による先頃の「この土人が!」事件を想起したり、作中でディスミュークス(ジョン・ボイエガ)が催していた吐き気に近いものが湧いたりしていた。根っこにあるものは同じだと思わずにいられない。

 家族や友人関係といった小さい“社会”で育まれたものなのか、地域や職域といったもう少し大きな“社会”で育まれたものなのかは定かではないけれども、上司から「差別主義者め」と非難されても悪びれないデトロイト市警のフィル(ウィル・ポールター)の確信犯ぶりには、「表だっては良くないとされている黒人蔑視も本来は当然のことであって、自分は間違ってない」と固く信じているような揺るぎなさがあって遣りきれない。

 対置されていたのが、銃を携行するガードマンの職に就いていたディスミュークスで、彼が“選ばれて得ている力”に対する自負と誇りについて、尋問現場を率いるフィルに語っていた場面が印象深い。この自負と誇りというものこそが“責任感覚”なのだと思う。並外れた力として、ガードマンとは比較にならない権力を付与された彼らに欠けていたものが何であるのかが、端的に示されているように感じられた。

 迫真の恐ろしさで延々と続くフィルらによるモーテルでの尋問場面もさることながら、ディスミュークスが市警によって濡れ衣を被せられそうになって感じている恐怖の生々しさに、権力というものの怖さが、とてもよく現れていたように思う。犯罪や悪ふざけに容易く手を染めてしまいがちな同胞たちからすれば、むしろ自分は警察に近い側のほうにいるとおそらくは思い込んでいた彼が、こともあろうにその警察から冤罪を負わされようとしている段になって窺わせていた狼狽と恐怖に怯えている姿が痛ましかった。彼が警官三人が裁かれた法廷での陪審員による評決を聞いた後、裁判所を出て込み上げた吐き気によって傍の植込みに嘔吐していたのには、そういった顛末も作用していたに違いない。

 実に丹念な取材を重ねたことを窺わせる本作の最後には、その後が判明している関係者の顛末が加害者被害者ともに紹介されていたが、やはり唯独りドラマとしても綴られた、ショービジネスの世界に憧れながらも事件後、白人にも聴かせる歌は唱いたくないと、その後に成功を収めたヴォーカルグループ“ザ・ドラマティックス”を脱退して黒人教会の聖歌隊に入ったというラリー(アルジー・スミス)の人生が最も印象深かった。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964996740&owner_id=1095496
 
by ヤマ

'18. 2. 5. TOHOシネマズ8



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